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そう言われても ~ 小満の頃’17


「はい、昔から大好きなんですよ、甘いものが。」

「へぇ~以外。スィーツ男子だったなんて。」

「いえ、甘いものは好きですが、スィーツ男子ではないですよ。」

「?」


「気分転換ですか?そうですね、ランニングは好きで時々走ってます。」

「あ、すごい。ランナー(上げ言葉で)さんなんですね。いつデビューしたのですか?」

「いえ、むかしから走ってますけど、ランナーじゃないです。」

「?」

 


 「ええ、そういうところ僕なんかもありますね。」

「やっぱり。ひょっとしてB型じゃないですか?血液型。」

「そうですよ。」

「だと思った。やっぱり『B』なんですね。」

「いや、血液型はBですが『B』じゃないですよ。」

「?」

 

 それは今どきの言葉遣いあるいは表現方法で、結局同じことを言ってるに過ぎないのでは?と言われるとそこには少し違いがあります。細かなことにいちいちこだわる料簡の狭い人のセリフでなくもない一方で、そう反論する気持ちもわからなくはありません。

 これは、同じ意味を表現するような言葉でも、名詞句(スィーツ男子、ランナー、B人間)とその他の形容詞句や動詞句との間にある微妙な言葉のニュアンスとインパクトの違いもあるでしょうか。

よくいえばシンプルで気の利いた表現で、悪く言えばある人に対しやや強引に一面的で画一的なラベルを貼ることによって、人となりの評価を下すようなこうした名詞句を多用する表現方法は、ラベルを貼る側からすればわかりやすく印象にも残りやすい一方で、その簡易な人柄や性格の描写のもたらす「わかりやすさ」「印象に残りやすさ」は、ある人の人格を正しく判断したり心地よい人間関係を築く際には、ときにかなりの曲者にもなりがちです。

たとえば学校の授業で先生から、「Aちゃん上手。いつも頑張ってるね。」と言われると、Aちゃんは嬉しくなります。でも、「Aちゃん上手。やっぱりAちゃんは『頑張り屋さん』だね。」と言われたら、もっと嬉しくなるかもしれません。Aちゃんに以降与える心理的インパクトもずっと大きいかもしれません。いっぽう、最近体形を気にしだしたBさんが、「Bさんはよく食べるよね。」と言われると、苦笑し内心反省するだけでサラリと流せるかもしれませんが、「しかしBさん、『大食い』だよね。」とハッキリと宣言されると、いやちょっと待っていくらなんでもそれは、と気分を害するものです。

このように同じ言葉のやり取りでも、形容詞や動詞を用いた表現が、その人となりに関するある一面であったり限定的あるいは一時的な状況下での事実描写という意味合いを持つのに対し、名詞句を用いた説明や表現は、その人についての不変かつ安定した本質や本性、人格について決定的意味合いを持つ強いメッセージ性を含んでいます。したがって、それに引きずられ以降その人についての評価、判断について一貫したイメージとパターンが刷り込まれることになります。それがたとえその人のすべてを物語っているわけではないと理解はしつつも、一度貼りつけてしまったラベルは、以降強固な参照手段となって私たちの心に深く刻み付けられます。「頑張り屋さん」はいつの時代も「頑張り屋さんだった」で通り、「大食い」というラベルは以降もずっとその人をついてまわってしまうものなのです。

また、同じ名詞句の表現でも冒頭にあげた例でいえば、「甘いもの好き」「甘党」という名詞(句)であれば、ある人の食べ物の好き嫌いに関する傾向やエピソードであるというだけの表現に近いですが、「スィーツ」や「男子」という言葉のような、ある種の時代性や人となりのなんらかを象徴するニュアンス、経験則や知識から導き出されるイメージや評価判断をその言葉に含む表現手法は、対象となる人物像をある種のカテゴリの中に閉じ込めることになります。そして私たちは、人となりだけでなくすべての物事をなにかにつけ簡便にカテゴリ化して理解しようとする傾向にあります。

実は私たちは、自分なりの考えや知識、判断や意思決定をあらためて見直すのが難しい生き物です。なぜならば人が生きていくうえで処理しなければならない情報は膨大で、それらすべてに平等に注意を向け慎重かつ最適に判断しようとすれば私たちの脳はパンクしてしまうからです。そこで、過去の経験や学習によって形成されてきた強固な知識の構造や思考・推論・判断・言語といった高度な知的機能(認知機能)の枠組みを常に作動させることになります。これを専門的な用語では「スキーマ」などといいますが、このスキーマを用いさまざまカテゴリ化することで、私たちの脳は膨大な情報をまずまず混乱なくテキパキと処理することができる。つまりは、厳密に正解ではないかもしれないが、とりあえずはおおむね満足のできる簡便な判断基準や方略があれば大概のものはうまくいく、というような認知構造を持っているのです。こうしたいわば簡易な知的ショートカット的思考は、私たちが限られた時間と能力の中で日常的な判断をさまざま行いながら周囲環境に適応していくには大変優れた能力なのです。

ところがその簡便さと効率性と引き換えに、私たちの認知は、ある種の安易なラベル付けを容認したり、スキーマと一致しない情報を忘却あるいは却下し、特定のスキーマに適合するよう歪んで解釈してしまいがちになります。そして社会が複雑多様化すればするほど、そうした自動的処理にまかせて済ませてしまうことでやり過ごす機会がどんどん増え、本来は熟慮したり厳密な手続きにしたがって検証しなければならないはずの領域の判断が怪しくなり、向き合わなければならないはずの問題を置き去りに見過ごしています。そしてこれが行き過ぎると私たちはいつしか、誤信や錯覚、合理性を欠いた意思決定やコミュニケーション不協和、さらにはステレオタイプや偏見、差別、敵視や憎悪といった不適切な認知活動を無意識に定着させてしまうリスクに見舞われることにもなるのです。

過去の経験則が上手に機能しない複雑で流動的な状況に直面することが増えつつある今の社会においては、仕事や学業、家族関係や人間関係、一般の消費生活、日常行動に至るまで、人生において人が振り向けなければならない認知的課題や認知活動があまりに多すぎ、しかもそれらは時々刻々変化します。たえずスマホやパソコン画面に接し、街中や電車内に常に目に飛び込んでくるあふれる情報に接することが日常化している私たちの多くは、限られた資源である認知処理能力をそんなことに使っていることになかなか気づくことができません。それどころか、ものごとについてできるだけ単純かつ整然と理解し、納得と安心感を得たいと考える傾向がある私たち人間は、むしろ何かにつけその簡便性とスピードこそが正しいものだ、と自分の取り巻く世界をできるだけ単純で一貫性のあるものとして無意識に処理してしまいがちです。ところがそうなると、いざ真剣に慎重に深く処理しなければならないことに直面しても、その重大さを充分認識できずに多くのことを放棄してしまったり、気が付いたときには取り返しのつかない困難な状況に陥ってしまうリスクを抱えることになるのです。

パソコンやスマホ、インターネットに深くする依存するようになった私たちの社会は、ひとりひとりがどこかのカテゴリに属しそれをさまざま確認したいとする「所属欲求」と、常に誰かとつながり誰かに注意を向けてもらうことを欲する「承認欲求」とがきわめて強い社会でもあります。そうした欲求を満たすため、簡便なラベル貼りを日々意識することなくあちこち奨励し、とにかく先へ先へと進もうする社会に私たちは生きているのかもしれません。常に外からの何らかの情報に接しないではいられず、絶えず自動操縦的認知活動の洪水の中で生きる結果、自分の内的な世界に注意を向け、そうした情報とじっくり対話し判断することが希薄な世の中になっている気もします。

ひょっとするとわたしたちの欲求で一番強いのは「普通でいること」への欲求かもしれません。私たちは普通であることをごく簡単であたりまえだと思いがちですが、その「普通」ということについて普段あまり考えないし、それが意味していることについてあらためて確認することなどはしません。だから「普通」なわけですが、その普通であることについて、いっそう私たちは慎重になる必要があるのではと感じます。自動的な認知活動が生み出す、私たち多数の考える「普通」が、実は多くの違和感や摩擦、矛盾を含んでいると疑ってかかる、という認知もまた私たちには必要なのでしょう。

「まえから思っていたんですけど、やっぱり女子力高っか~いですよね。」

え!?そういわれた途端、私の思考はフリーズです。女子力ってそれほめられてるのか、からかわれているか、皮肉られているのか、失礼ながら女々しいことなのかあるいはたくましいことの評価なのか。第一私は男、二百歩譲っても「男子」だし。まてよ、そもそも「女子力」ってなんのことか本当はわかっていないではないか

そう発言しながらニッコリするその視線に、なにかそんな一語で私のことはすべてお見通しです、のメッセージが込められている気がすると、息苦しさとも苛立ちともつかない落ち着かない感情を覚えてしまう

こうして、私の認知機能も日々パンパンのようなのです。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂

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by yellow-red-blue | 2017-05-23 23:31 | Trackback | Comments(0)

深く、静かに(Ⅱ) ~ 立夏の頃’17


「あ、どうもSさん。あれ、ひょっとしてここにお住まいなのですか?」

びっくりしたような私の第一声に、Sさんは笑顔と不思議そうな面持ちで挨拶を返します。「ええ、ここにお住まいですよ、もう何十年も前から(笑)。元気でしたか?しばらくです。」

散歩が趣味みたいなところのある私は、少し空いた時間や暇を見つけては、ついブラブラと自宅の近所周囲を散策するのが習慣となっています。それは仕事場でも同じで、麻布・六本木界隈は多くの人が訪れる人気の美術館や小さなアートギャラリ―、展示スペースも結構多いエリアです。芸術鑑賞も好きな私にとっては、息抜きにそうしたアート・スポットを短時間訪れては散歩を兼ね仕事場へと戻るのが、日々のささやかな贅沢でもあるのです。

そうした散策のルート上で、以前から「素敵なお宅だなぁ。」とひそかに気になっていた住宅がありました。モダンで贅沢な邸宅の立ち並ぶその界隈にひっそりとたたずむ、レトロな洋館風のこじんまりとした、でもとても素敵な家で、やや古さを感じさせるものの、住人のお人柄がにじみ出ているかのようなきちんと手入れの届いた外観とお庭のたたずまいに、「どんな人が暮らしているのだろう」といつも憧れと好奇心の気持ちでそばを通り過ぎていたのでした。

その邸宅から出てきたSさんと散歩途中にバッタリ出くわした結果、冒頭の会話となったわけです。ある地元の会合でご一緒した時以来の知り合いで、特に親しくお付き合いしているわけではないものの、会うたびに他の人達を交えよく歓談する間柄でした。控え目ながら朗らかでユーモアもある60代後半の健康的な男性というイメージのSさん。聞けばSさんは、貿易会社を長く経営していらした実業家で、今はすでに引退されここにはもう40年以上お住まいだとか。今日はお仕事か何かでこちらへ?と聞かれたので、私の散歩習慣やSさんのお宅の経緯のあたりを話すと、「いやぁ、そんな立派だなんて。もう中もあちこちかなりガタがきているし、すきま風で冬は寒かったりで、ひとり暮らしの年寄りには住みづらくて苦労しますよ。」同居のご家族はいらっしゃらないことにちょっと意外なものを感じたものの、「お一人でお住まいなんですね。やっぱり贅沢だなぁ。」とついつい家の外観に魅せられていたのでした。

しばらくの立ち話の最後に、ところでお仕事はなにをなさっているのでしたか、とのSさんの問いに私が自分の職業を答えると、それまでのSさんの笑顔に、驚きと戸惑いが入り交じった複雑な表情が一瞬見えたように感じました。

「カウンセラーさんですか、そうですか...それは大変なお仕事ですね...

私の短い回答の何かを知っているかのような、何かが引っかかるような感じの言葉に思えました。一瞬何かを言い淀んでいたかのようなSさんは突然、「よかったら、お入りになりませんか?中をお見せしますよ。」と話されたのです。

意外な展開に、仕事もあるのでとご辞退申し上げようと考えたのですが、素敵な家の中身を拝見したいとの願望とSさんの表情の裏にある何かへの好奇心に逆らえず、お言葉に甘えることとしたのでした。


外観同様、建築職人の技術の高さと品の良さを感じさせる素敵な家の中を一通り案内された後、質素ながら落ち着きのあるリビングに腰かけお茶をご馳走になっていました。絵がお好きだと聞いたのでお見せしようと思って、の言葉通り、たくさんの油絵や水彩画が家のそこここに掛かっていることに気が付きました。その多くは明らかに同一作者と思える作品で、有名な作家さんではないものの、観るものを納得させる技術と表現力があるように感じました。リビングに掛かっているいくつかの絵も同様にとても好ましい絵に思えました。思えたのですが、ただ「ちょっと数が多いかな」とも感じたのです。玄関や廊下、階段や各部屋と恵まれたスペースのすべてに絵画が掛かっていましたが、なにか「空いている隙間を埋める」かのように掛けられている、という感じもなくはなかったのです。これはひょっとしてご自分で描かれた絵なのでは、と直観的に思いました。なんとなくSさんのイメージにぴったりだったからです。

ところが、Sさんは「実はこれは娘が描いたものなんです。」と話し始めました。お一人暮らしということなのでつい私は、「そうなんですか。いやとても素敵な絵ばかりで感心していました。娘さんは別の場所にお住まいなんですね。こんないいお宅お一人で住むのもちょっともったいないですね。」と言葉を向けると、Sさんは穏やかな笑顔を続けながら、静かにおっしゃったのでした。

「ええ、まだどこかで元気でいるようです。ただ随分前に突然家を出ていってしまいましたが。」

私はなんと反応してよいかわからず理由も訊けず、ただ「そうでしたか。娘さんひょっとしてプロの画家さんでいらしたのですか?」と聞くのが精一杯でした。

「いえいえ、普通の大学生でした。絵を描くこともそんな才能があることも全く知りませんでしたよ。あることがきっかけで、突然たくさんの絵を描き始めたんです。」

重苦しい空気をそのままにしておくように沈黙を保ち、私はSさんが続けるのを待つことにしました。

「玄関と廊下にいくつかの絵がかかっているでしょう?気が付きましたか?」

「ええ、娘さんとはべつのどなたかが描かれた作品のようですね。」その絵は、どれも静かなタッチながら、デッサン力も表現手法も娘さんの絵と比べるとだいぶ力強さに欠けているように思えました。物静かな中に確固とした自信と描く喜びのようなものが感じ取れる娘さんの絵画とは対照的に、粗削りの魅力が滲み出る絵もあるかと思えば、どことなく弱々しく繊細な作品もあり、同じ人による作品とは思えないどこかばらばらな感じが見て取れたのです。なぜこのような絵を誰にも目に付くような場所に飾っているのかなぁ、と内心ひそかに思ってもいたのです。

「実はあっちの絵は妻が描いたものなんです。」

なるほど、親子で絵に才能がおありなんて素敵ですね、やっぱり遺伝なんでしょうか、と明るく会話をつないで収めるには程遠い事情がやがてSさんの口から明らかにされました。

「実は妻は亡くなってるんです。随分と前のことでまだ若かったのですが。自殺でした。」

「病院通いの頃にぽつぽつと絵を描き始めたんです。随分元気になったと思った頃もありましたが。でも駄目でした。娘が絵を描き出したのは家内がなくなってしばらくたってからのころからでした。」

「さっきカウンセラーという言葉を聞いて、つい家内のことを思い出して。長い間精神的な病で通院し、当時いろいろなお医者さんやカウンセラーの先生と会って随分とお世話になりましたから。お仕事を聞いてとっさに話をしたいと思ったんです。絵を見てどう思うのか、何か意味しているのかとふと思ったもので。すみません。」

「いえ、とんでもない。そうだったのですか」私はあまりそれ以上の言葉を続けることができませんでした。そしてできるだけ絵の率直な感想をシンプルにお話しました。そこに何か深い心理的なメッセージを読み取れるものはなくまたその必要もなく、純粋に創作活動の作品として楽しむべきいい絵画なのでは、と。対象喪失を乗り越える回復過程における執着対象からの離脱と新たな創造性や自己表現への欲求ないしは発露だとかなんとか専門家ぶった言葉や解釈がその場にそぐわない何とも陳腐でばかばかしく思える空気がそこにはありました。

それを聞いたSさんは、「そうですか。私もどの絵もみんな好きなんです。」納得も不満もない淡々とした笑顔でした。「でも本当にカウンセラーは大変なお仕事ですね。ご苦労も多いでしょうが大変意義深いお仕事ですよ。」

「いえ、本当のところ自分の知識や経験、推測がいかに役に立たないか痛感しています。結局は何も役に立っていないんじゃないかと恐れる毎日です。仕事を重ねれば重ねるほど、『実はほとんど何もわかっていないかもしれない』と感じるのですよ。分かったことといえばせいぜい、似たケースはあるけれどその結末に至るまで同じケースは二つとない、ということぐらいでしょうか。」Sさんの隠された痛々しい過去の告白の後を追うように、私の口からもつい率直な心情が出ていました。

Sさんはまた少し驚いたように、「妻を診て下さっていた何人かの先生が全く同じ言葉を口にされていましたよ。やはりそうなんですよね

Sさんの二人のご家族が絵を描くことに没頭し始めた本当の理由は誰にもわからないし、そしてまた二人がさよならもいわずになぜSさんのもとを去っていったのかその理由もまた誰にもわからない。なにひとつ明らかにされない重すぎる喪失体験を抱えたまま、Sさんご自身は今を生きながら、その心は今後もずっとその家の中で、数々の絵画とともに過去を繰り返し再生し続けていくのかもしれません。その素敵なお宅とそこに暮らす幸せな住人の生活について妄想してきた自分もまた、結局なにもわかっていなかったことを虚しく感じながら、丁寧なお礼の言葉とともにSさん宅を後にしました。

職業としてのカウンセラーのむずかしさには3つあるように思います。ひとつには、「こころ」という言わばこの世でもっとも不確かで不明な存在の、しかも特に人生における困難な状況にあるそれを扱わなければならない職業であることです。「心理援助職」とか「心を扱う専門職」という、利他的で向社会的な言葉の響きが耳に聞こえはいいけれど、実はその出発の場所もゴールの場所もその解釈も明確でなく、成果や結論もまた実は明確ではない仕事です。今の私たちの社会で今後なお一層必要とされるであろうとは言われながら、どのような明確な評価軸と存在意義をもって職業として成立させていくかは、常にそしてこれからも難しい問題であり続けます。

二つめは、人にとってカウンセラーとは、自分の人生でできれば出会わずに済ませたい、関わりを持たずに人生を送りたいタイプの職業であることです。それならガン治療の専門医や警察官、法廷や刑事事件を取り扱う弁護士もそうかもしれません。しかしそうした仕事は、同時にいざという時にはやむを得ずすがるしかない、頼れる職業でもあります。しかし、カウンセラーが扱うのは人の「こころの事情」です。私たちの人生には、個人差はあるにせよ自分をオープンにし、すべてにおいて前向きに努力していけることもあるでしょう。しかし、思考や感情という領域では、とくにそれが自分では直視できないほどつらかったり自己批判的な側面を持つ状況では、そのようにポジティブな姿勢でいることはとても難しいのです。私たちはとても後ろ向きで、自分を一番大切にするある意味臆病な生き物でもあるので、そうした精神的困難に直面するとあらゆる自己防衛手段を使ってそれを隠し、拒否し、直視しないことに懸命になります。私たちの社会では、精神的な困難を抱えるということは、どこかいまだ身体的な病や事故災害のように何らかの外的要因に責任転嫁しうることのかなわない個人的落ち度を意味し、その人の本性についての決定的な評価である空気があります。こうしてあたかも社会における落伍者の烙印を押されるにも等しいことであるとして、私たちは長い成長と発達の過程で無意識のうちに様々学習してきたともいえるのです。

三つめの困難さとは、だからそうであるがゆえに、カウンセラーが真に向き合うべきは、決して社会の表に出ることも察知されることもなく、深く、静かに生きている人々であるということです。人も羨む素敵な家に暮らすSさんのように、むしろ外から見れば何の問題もなく、世の中に普通に適応しているかに見える人の中においてさえもまた、想像もつかないような哀しみと孤独、苦痛が隠れています。そうした人にとって、医療機関や相談窓口の単なる数だけの充実、インターネットを含めたあらゆる媒体メッセージも、ほとんど何の救いにもならないのかもしれません。ひたすら自らの喪失体験に浸り、耐えていらっしゃる人々に対し、ただ「ある」とか「そこでおこなわれている」「いつでも相談できる」ではない、偶然でも必然でもなんでもいいから一人でも多くと出会い、何かしら語り掛けることができる方法はないものか、Sさんのお人柄とその素敵なお宅のことを思うと、真剣にそう考えさせられます。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂

(※当ブログの各記事の中で言及されているエピソードや症例等については、プライバシーに配慮し、ご本人から掲載許可を頂くもしくは文章の趣旨と論点を逸脱しない範囲で、内容や事実関係について修正や変更、創作を加え掲載しています。)
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by yellow-red-blue | 2017-05-05 12:54 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、カウンセラーとして、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。ブログのどこかに、読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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