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悩みの作法(Ⅰ)~ 夏至の頃’17


夏至と言えば、1年で最も昼間の長い日と言われる日です。暦のうえでは本格的な夏の到来を告げる日でもあるのですが、日本ではほとんどの地域で梅雨の真っ只中ですから、実際にはジメジメあるいはやや肌寒い雨曇りの空模様が続いたり、たまの晴天の日はえらく蒸し暑かったりと、気温だけみればちょうどいいぐらいのはずなのですが、体感としてはやや不快な陽気といえます。そろそろエアコンつけようか、あるいは夜は窓をちょっと開けたままにして寝ようか、仕事帰りにビアガーデンへもそろそろ、などとさまざまに迷う季節かもしれませんね。

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「ほら、また力が入ってますよ。もっと肩から力抜いて。」「え?」

しばらく前から通っているマッサージのお店で施術を担当するYさんとの間でしばしば交わされる会話です。日頃溜まりがちな心身の疲労やストレスを効果的にほぐしてもらっているさなか、本人としてはぁ~気持ちいいなどとリラックスした気分に浸っているつもりなのですが、身体ケアのプロから見ればどうやらちっとも肩から力が抜けていないようなのです。それで横になっている私が思わず「本当?」と振り返ると、「ええ、もうパンパン。」苦笑交じりのYさんの視線と目が合うというわけです。

肩に限らず、首、腕(特に上腕部と手首)のような、ストレスと疲労が溜まりやすい場所から力や緊張が抜けずにいわゆるスタンバイモードのまま日常を送っている人が多いのだそうです。だからこそ心身のリラクゼーション効果を提供するYさんのようなお店やトレーニングジム、ヨガスタジオといったさまざまな身体ケアの方法を私たちはあれこれと模索するようになったといえるのですが、元々体質的に疲れやすかったりストレスを感じやすい人に加え、長時間パソコンに向かってのデスクワークや、スマホなどの小さな画面を良くない姿勢でずっと眺めるような生活スタイルが定着してしまった現代人が共通して抱えがちな悩みといっていいのかもしれません。

こういった身体各部の張りに加え、私たちの身体的不健康さの特徴の典型としてあるのが、「浅い呼吸」と「姿勢の悪さ」の2つです。なにかとストレスや緊張、あせりや不安の多い社会で暮らす私たちは、日常生活できちんとした姿勢を保つことや深くゆっくりと呼吸することが思いのほか少なくなっているのです。

こうした身体に負荷のかかった状態が長く続くと、それが普通であると身体が間違って学習しクセがついてしまい、たとえストレスや緊張から解放された状況や気分に戻っているにもかかわらず、身体の方は依然としてスタンバイ状態をそのまま維持し、なかなかリラックス状態に戻ってくれません。結果高血圧や心臓への負担、腰痛や睡眠不足、頭痛や視力の低下、不摂生の継続などの生活習慣の病や、慢性的な抑うつ不安感などの心の病へとつながったりさえします。 

友人でもあるYさんにはプライベートでも何かと気づかいとアドバイスをもらったりするのですが、恥ずかしいことに、肩や首の張りに加え、猫背と浅い呼吸という3条件を見事にクリアしている私は、Yさんに言わせればまさしく現代ストレス社会の申し子のようです。そんな自分の状態に気付けないばかりか、年齢相応にそこそこ生活習慣に気を使い、運動も適度にこなし健康的と密かに自負していた私にとっては、自分の身体に関していかに無知で関心を払っていなかったのか、なかば自嘲気味に反省させられてしまいます。

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こころと身体の関係はとても密接です。さまざま作用しお互いに影響を与えます。身体の状態はこころの状態でもあり、身体の姿勢はこころの姿勢といってもいいかもしれません。人は自信ややる気に満ちている時、こころなしか胸が張り上向きの姿勢をとり、表情や振る舞いも生き生きとしているものです。好きなことをしている時、幸せを感じる時には、その表情は穏やかで笑顔もこぼれ、楽しくめったに疲れを感じません。呼吸も深くゆっくりです。ところが、緊張したり不安を抱えているときは、表情はどことなく暗く目は笑わず、姿勢は前かがみにうつむき加減で、肩には力が入り過ぎ、呼吸は浅く小刻みで安定しません。疲労感が常について回ります。

心の状態が身体の状態を生み出すということでいえば、逆に身体の状態が調えば新たな心の状態を作り出すことも可能であることを意味しています。このことは必ずしも誰しもにあてはまるものではないにせよ、さまざまな医学的・心理学的な研究と実験により確認されています。

私たちは、好きなことやしたいことを楽しんだり、自分の望みや前向きに取り組みたいと思うことを実現するためにであれば、いつもそれらにふさわしい準備や環境整備を怠らないものです。存分に時間や費用をかけることさえします。つまり私たちはそうしたことに対しては、意識して注意を傾けそれなりの敬意を払い、思いやりの気持ち込めて接する。つまり何かと気づかうことができるのです。

ところが、ひとたび自分の悩みや不安、心配事ということになると、直視することが苦手で、それを苦痛と感じ、避けようなかったことにしようとどこか心の隅の方に追いやろうとします。向き合いたくないのは当たり前のことなのですが、結果として私たちは逆に状況や場に関係なく、時に無頓着そして唐突にネガティブ感情の渦をさまざま心の中でめぐらせ氾濫させてしまうことを放置し、いたずらに時間とエネルギーを消費してしまいがちです。

人はどのみち悩みを抱えます。悩みはそう簡単には消えてくれません。解決に向かって果敢にそして迅速に行動することなんてできはしないし、他人にやすやすと悩みを打ち明けることなどできません。それができる人はただ、そうできる人である、ということに過ぎません。ですからなかなかできないことで自分を責めたりすることは間違っているし、そういう自分に気が付いたらただ自分に寛大になっていればいいはずです。相談できる相手がいないからといって孤独を感じる必要もないのです。私たちは本来、常に合理的で真っ当な判断をする生き物ではないし、それができないことは普通でなく損失や欠点だ、などと思う必要なく生きていくべき生き物です。たとえ不器用だろうと弱気であろうと人それぞれ、生き方それぞれがあるだけだからです。

「人間はむしろ困難を必要とする。困難は人間の健康にとって欠かすことができない。ただそれが余計な重荷になるかどうかという、程度の問題にすぎないのだ。」(C.G.ユング)

であれば少し考え方を変えて、私たちは、悩みや不安があることにもっと敬意を払ってふさわしい扱いをしてはどうでしょうか。思う存分に悩むための準備や環境づくりをもっと意識してもいいのではないでしょうか。悩むことを回避することなく、正しい悩み方で向き合ってみてはどうでしょうか。無理に否定しようとしたり避けようとする必要もないのかもしれません。

では「悩みの作法」つまり「正しい悩み方」なんてあるものでしょうか?詳しくは次回で触れたいと思いますが、冒頭で触れた「力を抜く」「呼吸」「姿勢」あたりにその手がかりのひとつがありそうです。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

メンタルケア&カウンセリングスペースC²-Wave 六本木けやき坂

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by yellow-red-blue | 2017-06-21 21:31 | Trackback | Comments(0)

小さな季節 ~ 芒種の頃’17


芒種の頃といえば、すでに梅雨入りしている地域もあるので当然といえるかもしれませんが、今年は例年になく全国的に大気や天候が不安定な状況があちこち見られるようです。東京でも気温が急にぐんと上がり真夏日があるかと思えば、5月末~6月の初旬とは思えないような局地的な雷雨、それでいてその後は朝晩を中心にひんやりとした北西からの冷たい風が吹く、という何とも気まぐれな大気の状態で、体調管理と衣服の調整に四苦八苦なさっている人も多いと聞きます。一方、今年も早や1年の折り返しの月を迎えていることにふと気づき、せわしない時の経過に何やらその間無為にすごしてしまったのでは、と焦りとも反省ともつかないお馴染みの複雑な感情がよぎる時期にもなってきました。あ~あれもしとけばよかった、これやると決めたはずなのに、まだやっていないこれそれは早くやらねば、誰彼と最近連絡とっていないな、来週のあれそれは今の内から準備しておこうなどなど、人は頭の中では常に慌ただしく様々な思考や感情が巡っているものです。

そんな中、小さく内向きに凝り固まりがちな自分のありようとは全く別の、今の季節を感じさせるささやかな便りが予期せぬあらぬ方向からやってくると、力が抜けなぜかちょっとホッさせられます。先日東北に暮らす友人からドッサリと送られてきたのは、採れたての今が旬のネマガリダケ(関東あたりではヒメタケの一種)。上品な香りと初々しい歯ごたえがたまらないこのちっちゃなタケノコの仲間は、皮のまま焼いたり茹でたり、あるいはお米と一緒に炊きこんでもその味は格別です。

東京では物珍しい地方の食習慣をそのままいつも気まぐれに運んできてくれる友人に感謝しながら、食べきれない分をご近所に少しお裾分けをしたところ、今度はそのご近所さんから、農業を営んでいる近県のご実家から送ってきたというこちらも今が本当においしいそら豆を、お返しにというにはあまりの量をいただくこととなりました。こちらも土の絡まる皮を洗ってそのまま焼いたり茹でたり。ホクホクと取れたての新鮮さが口の中ではじけるようで、大袈裟ながら生きていることに感謝したくなるほどのおいしさです。

食材のおいしさもさることながら、このような時にうれしく感じるのが、こうした大地の恵みに付着している黒々とした土や野菜を包む朝露の染み込んだ地方新聞の古紙の束から香ってくる、かつて自分の身の回りにもあったはずの自然やなつかしさがもたらす穏やかな時のリズム、そして相手のあたたかな心遣いに誘われて沸き起こる何ともいえぬ幸せな気分です。今やこうした食材の多くが、ハウスものや世界各地からの輸入品などスーパーへ行けばほぼ通年手に入ることから、それらから季節を感じるということはあまりなくなってきている私たち都会の人間にとって、あらためてこうして人づてに大地の恵みが届けられると、いかに日常の暮らしが自然の営みから切り離された慌ただしい生活であるのか痛感させられます。

一方で、こうした頂きもののお返しを何にするかということでいつも頭を悩ませてしまうところもやはり都会に暮らす人間ならではでしょうか。食べ物のお返しにはやっぱり何かおいしい物をと思うのですが、季節を感じさせる自然の恵みなど無にも等しいここ東京からの贈り物といったら、デパートやお店などで売っている、ある程度日持ちがして話題性もこだわりもあるけれど、あまり季節を感じさせない、いまどきのスィーツあたりに落ち着きがちです。「こっちにはそんなものないから、逆にそれのほうが田舎暮らしの私たちにはうれしい。都会の風が吹いてくるようでみんな大喜び。」と言われると少しホッとしますが、都会の暮らしには、季節と季節の微妙な変化を日々感じるものごとや時間そのものが無くなりつつあることにも気づかされます。


ジューンブライドの6月は、結婚にまつわるイベントが多い季節でもありますが、先日ある友人が海外での挙式前に久し振りに会いましょうということになり、お祝い代わりに何か気の利いた手土産でも持参しようかなとあれこれ悩んでいると、ふと少し前にある方から頂いたチーズケーキのあまりのおいしさを思い出したのでした。調べてみるとどうやらかなり名の知れた洋菓子店で、しかし一日10個だか20個だか限定でしかも事前の予約不可の、つまり入手が極めて困難なものであることが分かりました。甘いもの好きながら、そうしたいまどきの流行への敏感なフットワークを持ち合わせていない私は、しかし今回ばかりはと行列を覚悟に知人と会う約束の日の当日の午前中にお店へと向かいました。

落ち着いた並木通り沿いのいかにもなたたずまいをみせるその評判のチーズケーキを売るお店の前には案の定、開店までまだ30分ほどあるにもかかわらず何人かが列を作っていました。なににつけ行列に並ぶということに抵抗を感じてしまう性格の私は、若い女性ばかりの列になおさらの罰の悪さというか気恥ずかしさを覚えつつ最後尾に。気がつけば、早く開店してほしい、買えるだろうか、買ったらすぐに地下鉄を使ってどこどこで乗り換えて、でも待ち合わせ時間まではまだ間があるから、しまったお昼をどこにするか考えていなかったな、などと、あちこちと考えが巡っている自分に気づきました。一様にうつむき加減に押し黙ってスマホ操作に没頭しながら並んでいる周囲を見ながら、ふと何気なく上を見上げると、その街路樹の桜の木に生い茂る新緑の葉に目が留まりました。

桜といえばピンク色の花が咲き誇る春先を思い浮べますが、明るい初夏の陽光に照らされ、思ったよりもずっと薄手な葉から透けるように差し込む光には何かうっとりさせるやわらかさがあります。幾重にも繁茂する葉は、それこそ新緑と一言では言い表せないほどに多様な緑の色を発していて、そよぐ風に幾方向にもなびくそれぞれの葉が織りなす木洩れ日の光と影、青空とのコントラスト、ささやくように奏でる風の音は、どの樹木にもまして表現豊かで品の良さと美しさに溢れていることに気づかされます。

「どうして東京にはこんなに桜があるのに、花見の季節だけしか興味示さないのかしらねぇ。今の季節にこそ桜を愛でに行くべきよ。花だけに目がいって、桜が本当に美しいのは初夏や秋なのに。」以前ある人からそう言われて以来、私も季節外れの桜並木見物を習慣とするようになったのですが、なるほど私たち人は周囲の物事や人について、思ったよりも注意深く目を向けたり観察することをせず、頭の中にある固定した世界の中を常に巡るばかりのことのほうが多いのかもしれません。気がつけばすでに開店時間を過ぎ、私の前の行列はお店の入り口へと吸い込まれ、私も幾分爽やかな気分でお目当てのチーズケーキを無事購入することができたのでした。


 ヒメタケ、そら豆、桜の木の葉。小さな季節の断片にすぎないそうした手がかりが、近い遠いに限らず過去や将来についてあちこちさまよう心を、「今」という大切なひと時に解放し、ただ「今」であることに注意を向ける大切さを意識することに戻してくれます。今を感じ、ただあるがままの今につなぎとめてくれる存在をあれこれ探してみることは、自分の思考や感情の中にとどまるあまり、物事が実際の「いま」とは違うことを常に願い、過去や将来へとあちこちさまようことに日々を過ごし消耗してしまいがちな私たちの心身の健康を取り戻すための手がかりになるかもしれません。

私たち人間は、自分と身の回りに起きている物事について、常に思考や感情を駆使し、過去と現在と未来の間をさまざまに監視・評価・判断し行動することで社会生活を営む生き物です。しかしひたすらに利便性や効率を追求し、時間に追われがちな現代社会の生き方は、目標課題の達成と問題解決に常に備えるよう促される生き方であり、絶えずそうした「今」とは違う「何か」のために「今」から人を引き離し「今」とともにある大切さに気づきを与えることなく心的な負担を強いてしまっています。

ストレス解消やリラクゼーション効果を高めるための様々な手段、たとえばヨーガや座禅、ランニングやウォーキング、各種の身体トレーニング、舞踊や芸術的表現活動からはたまた最近つとに注目される心理療法あるいは自己啓発的スキルとしてのマインドフルネスの考え方もそうですが、こうした心身の健康維持のための実践活動の根底にあるのは、現在進行中の課題や動作のもたらす身体感覚の気づきへの意識を高めることにあります。「今」自分に起きているあるいは自分がおこなっていることそのものに注意を向け、それがどのようなものであろうとそこに何の評価判断、感情も加えずただその「今」の存在を認め「今」と一緒にとどまっているための集中の方略です。ただあるがままの瞬間瞬間の今に意識を集中する実践を通して心にもたらされる穏やかな解放感の体験は、日頃さまざまなネガティブ思考や感情に色付けられた物事のとらえ方を引きずり日常を送っていることの気づきへともつながっていきます。

悩みや不安、ストレスの背景にある思考や感情が、たとえれば大海原の「波」であって「海」そのものではなく、あるいはまた、大空に浮かぶ常に姿形を変えやがては消えゆく「雲」であって「空」そのもではないように、それら自体が私たちの心や私たち自身なのではなく、広い心の領域のほんの一部で沸き上がるほんの一時の現象にしかすぎないこと、「思考」は単なる「思考」であることを冷静に実感できる心の余裕を生み出していけるようになること。そして心から悩みを消し去ろうとしたり回避しようとするのではなく、それがただあることを心穏やかに許す広い心の在り方を探ること。こうした試みが今を生きる人びとの間で様々に実践されていることは、それらが今の社会に深刻に欠落しているものを回復するための、私たち人間に本来備わっている至極自然な欲求行動であるからなのかもしれません

最後までお読みいただいてありがとうございます。

メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂

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by yellow-red-blue | 2017-06-05 21:40 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、カウンセラーとして、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。ブログのどこかに、読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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