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名前は魔法 ~ 穀雨の頃’18


先日出席したとある懇親会の会場で、荒井さんとおっしゃる方にお会いしました。苗字が私と同じなので、何やら親近感を覚え初対面ながらつい話し込んでしまったのですが、その折やっぱりこの方も私と同じく、日常のある小さな悩みを抱えていることを知ったのでした。

それはつまり、あまり正しく名前を覚えたり表記してもらえないという悩み。

これはもしからしたら難解な漢字や読み方のお名前をお持ちの方には、めずらしくないことなのかもしれませんが、荒井という比較的よくあると思われている苗字を持つ者にとってもそれなりの悩みはあるものです。

「荒井」はかなりしばしば「新井」と誤変換され、電子メールや郵便物・ハガキ、招待状や通知文などのあて名となり視覚的に私に伝えられます。もちろんたいがいはよくある変換ミスじゃないか、とさらっと済ませられるのですが、こうも頻繁に起きると正直あまり気分は良くないのです。これが知らない人や通販業者からの荷物やダイレクトメールのあて名ならまだしも、知らない間柄ではない方や重要な書類などに間違って表記されることもよくあるので少し悩ましいです。結構な知り合いからの、優しく気遣いのこもったメッセージの冒頭いきなり、「新井さんへ」などとされると、何だかその文面の誠実性まで疑ってかかりたくもなる気分にさせられてしまうことも。相手にはそんな意図がないことは百も承知ながら、「あなたにとっての私はその程度か」「またか」の一方的なひがみ根性を時として抱いてしまったりするのです。



また、電話をはさんでの氏名のやりとりなどで、「新(井)」ではなく「荒(井)」であることを相手に説明するのにもけっこう骨が折れます。

「荒井様の『あら』は新しいの『新』でよろしいでしょうか」

「いえ、そうではなくて」と伝えるやすかさず、

「あ、ではくさかんむりのほうですね。失礼いたしました」

ひと昔前なら、スムーズにこれで終わるのが普通でした。

ところが最近は「くさかんむりのほう」と言っても、その意味が分からない世代が多くなったのか、伝わらないことが多いのです。そこで、「荒川の『荒』です」「荒川区の『荒』です」などともうひと工夫凝らす必要がでてくるわけです。


しかし、そこでも大きな難関がさらに2つ立ちはだかるのです。ひとつは、「荒川」や「荒川区」は東京・関東近辺限定でなら通用するものの、他地域の人との電話口では「荒川?」と相手がわからないことも多いのです。

かくして、くさかんむりもダメ、荒川・荒川区も通じないとなると、お互い別の表現で意思の疎通を図らなければなりません。歴史上の有名人やスポーツ芸能人で広く一般的に知られている人がいればその名前を挙げればいいのですが、悲しいかなあいにくそのような「荒井」の覚えもない。そこで相手となにやらめんどうなやり取りがかわされることもあったりします。電話の向こう側の相手が引用する例えがまた傑作です。「荒ぶるの『荒』」「荒れくれ者の『荒』」「荒野の七人の『荒』」「荒っぽいの『荒』」など、聞いているこちらが思わずふきだしたりしてしまうのですが、名前の表記は意外とやっかいなものです。


そしていまひとつ立ちはだかるもっと深刻な問題が(しつこくてごめんなさい)、「『新』ではなく『荒』ですよ」問題をようやくクリアした後にやってきます。なぜか「荒」に続くのは「荒(井)」ではなく「荒(川)」であるとほぼ自動的に考える人が思いのほか多いことです。そして『「荒川」「荒川区」の荒です』と言ったが最後、以降私はいつのまにか「荒川さん」と認知され、その後荒川さん宛てのメールや郵便物が洪水のごとく押し寄せるのです、新井さんとおなじくらい。

当然のことながら直接「荒川さん」と呼びかけられることもしばしば。これが過去に1度や2度程度しか面識のない方に言われるのならまだしも、結構なお付き合いのある方からも、単なる言い間違いなのか完全に誤解しているのか判断しづらい程度に「荒川さん」を使われていると、これがなにやら今さら訂正しづらく、みずからのほろ苦い存在の軽さを味わったりします。

たとえばデータ上の氏名リスト上のような場合には、一度訂正すれば事足りるのですが、人間の認知においてはたとえ一度訂正が入ったとしてもそれがなかなか定着しないことがあるのでとてもやっかいなのです。

仕事やお付き合いの場面ではこうした間違いの連発は致命傷にもなりうるので、相手や状況によってはさりげなく訂正することもありますが、なんだかそんなことをいちいちあげつらうのも大人げないと思い諦めてしまいます。とはいいながら、なんだか基本的人間関係の入り口でまずもって誤解があるような気がして、何となく気分がすっきりしないのです。

冒頭で紹介したもう一人の荒井さんも、これら私と全く同じエピソードをお持ちで、慣れているとはいいながら、そのたびに心の中の苦笑を抑えられなかったのだそうです。



個人的な愚痴をたらたらと書いてしまいましたが、ある人と親しい関係になりたいと思う、あるいは良好な人間関係を築きたいと思ったら、その人の名前をできるだけ素早く覚え、さりげない会話の中で直接相手や相手の周囲に対して使うことは、とても大切な方策と言えます。誰でもないあなたという一人の人間に私は話しかけている、好意を持っている、信頼している、あの人は私を覚えていてくれる、自分を多少なりとも意識していてくれるなど、じつに豊かなニュアンスをこめたり、また感じることのできる名前は、私たち人間が元々持っている親和欲求を巧みに満たしてくれるいわば魔法の言葉です。状況や関係性を無視して、やたら人を親しげに名前で呼ぶのは逆効果ですが、たいがい悪い気はしないものです。人の名前を覚えることはそう簡単なことではありませんが、名前の上手な使い方を日常で少し意識すると、人間関係がより潤滑に進むことは覚えておいて損はありません。たとえば、名前は知らないのだけれど日常生活のちょっとした場面でしばしば出会い、挨拶や短い雑談を交わす程度の顔見知りの人の存在は誰にでもあるのではないでしょうか。そんなときは少し勇気がいるかもしれませんが、今度その人を見かけたらこちらから自己紹介してみる、もう少し長く話かけてみる、などはとてもいいトライかなと思います。たとえほんの少しの前進や積み重ねだったとしても、お互いの名前を知らずにいることと比べて随分と人間関係に幅が出るものです。


日本語の会話では、必ずしも主語は必要とされません。「私は」とか「~さんは」と言わなくても話は通じる場合が多いのですが、一方カウンセリングの対話場面では、できるだけ話の主体、主語をはっきりさせることを意識します。

「~さんはどう思いますか「「~さんが期待することはなんですか」「~さんがそう信じているのですね」確認と繰り返しがその思考感情や行為の主体は自分であることの意識付けになり、あらためて内省する機会をもたらすことにもなるのです。

たとえば、家庭内で暴力をふるってしまう人の中には、暴力や暴言の事実は認めることはできても、「私が~」というところは微妙に避けて表現する人がいらっしゃいます。自分が主体的に行っている行動であることから目を背けて、何かが(状況や他者)がそうさせているかのようなニュアンスを強調したり思い込んだりしてしまう。そこで「あなた自身が」ということに、優しくそして共感的に焦点を当て続けながら、さまざま対話をしていくことはとても大切なプロセスです。もちろん強引に相手に何かを認めさせるということは控えますが、あくまで主体はだれで何が目的なのかを探る、確認し続ける過程を通して、問題の背景や原因、良否の判断を導き出すのもカウンセリングの重要な役割なのです。



ところで名前について、過去に恥ずかしい失敗の思い出があります。夫婦関係の問題で相談に訪れていた女性とのカウンセリング中のことでした。長いカウンセリング期間の間にその方は結局離婚なさったのですが、離婚後もしばらく続いたあるカウンセリングの最中に、突然その方が私に訴えたのです。

「あの、すみません。先生わたしもう『鈴木』ではなく、『菊池』なんです。鈴木と呼ばれるのはちょっと...』

私は無神経にも、離婚後もそのまま婚姻時の姓で話しかけてしまっていたのです。

「ああ、申し訳ありません。配慮が足らず本当に申し訳ありません。」

見た目にも私はかなり落ち込んでいたのでしょう。

「大丈夫ですよ、先生。私もだいぶ強くなりましたから。」

今までに見たこともない明るい表情でそう話すその方が確実に立ち直りつつあることを、自分の失敗を通して気づかされたという、何ともほろ苦い思いです。

 

ちなみに、カウンセリングの場面では「先生」とよばれることが多いのですが、あくまで治療者と相談者は対等の立場での対話が基本の立場からすると、もっと気さくにお互いに名前で呼び合っても場合によってはいいのかなとも思わないではありません。お医者さんや学校教諭、政治家の方々と同じような呼び方をされるのがどうも苦手なのです。ただ、カウンセリングにおける関係は一般の人間関係とは異なり、治療という目的達成に焦点化された関係であって、相談者がその性質を親しい友人や家族関係の代わりのように過度にとらえることのないような配慮は必要です。問題解決への親密な協力関係を維持しながら、余計な感情や情緒と距離を置き、互いの立場を尊重するためには「先生」であることのほうがむしろいいのかもしれません。

でも本当は、名前で交流する方ずっと気が楽で嬉しいのです。『新井さん』や『荒川さん』ではちょっとつらいですが。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂

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by yellow-red-blue | 2018-04-20 21:57 | Trackback | Comments(0)

外の世界、内の世界 ~ 清明の頃’18


桜前線は徐々に北上するため、日本列島全体で見れば桜を楽しめる時期は相当長い期間になります。でも私たち普通一般の人の認識は、桜の見ごろはあっという間に過ぎ去ってしまうというものでしょう。ある調査によれば、桜が開花する季節、お花見を目的としたレジャーで何らかの外出をする人は、全国で毎年およそ6000万人にも上ると推計されるのだそうです。つまりおおよそ日本人の2人に1人はお花見を目的にどこかへ出かけ、何らかの金銭的支出を行い、そこに莫大な経済効果が発生しているというのです。こんな情報に接すると、やっぱり日本人は桜が好きなんだな、それにしても凄い人数だ、と思うことでしょう。

ところがこれがもし、ニュースなどで淡々と次のように報道されたらどうでしょうか。「桜も満開の季節となりましたが、ある調査会社がおこなった花見に関する調査によれば、日本人の2人に1人、人口にして6000万人以上の人は、実は桜の季節になっても特にお花見などに出かけないという推計結果が出たそうです。」意味するところはまったく同じにもかかわらず、随分と受け取る印象が違ってくるのではないでしょうか。「へぇ、意外とどこにも行かない人もいるんだ」「そりゃそうだ。年度末で忙しいだろうし、私なんかも通勤途中でチラリ見るぐらいで済ませるよ」「来年もあるわけだから」「もう会社や自治会で花見なんて時代じゃないだろうしね」という具合に、接した情報の認識に沿う考えやエピソードが頭を占めることになります。



 私たち人間は、このようにあるものごとについての判断なり見方についての枠組みや切り口が変わることで、その対象への主観的価値や善悪の判断を容易に変えてしまう心のメカニズムを持つ傾向にあります。特に、インターネットやテレビなどといったメディアへの長期的あるいは反復的な接触は、私たちが想像する以上にその判断や行動に影響を与えます。つまりその人の現実認識を、メディアが描いているものに沿った形でいわば「培養」(心理学では『培養理論』などと言います)するのです。メディアである争点や話題が繰り返し、あるいは大きく取り上げられるほど、その争点やトピックを重要なもの、優先して取り組まれるべきもの、世の主流となっているもの、今世間の多くがそのように考え選択していると、意識的無意識的に信じてしまう傾向を持っています。結果私たちは、そうした普段接することの多い情報を、事実や実際の頻度とは異なるにもかかわらず、実例としてすぐ頭に思い浮かびやすいがゆえに、この世の中でよく起こっている「事実」であるとしばしば判断してしまうことになるのです。

 つまり人は、自分達を取り巻くさまざまな事象について、多様性ある視点から正しく認識解釈したうえで、じっくり腰を据えた意思決定や行動をおこなっていない可能性のほうがむしろ高いかもしれないのです。もちろん多すぎる選択肢は必ずしもベストな選択を生み出しはしないのですが、問題は、多様な情報媒体とネットワークを持ち、溢れんばかりの情報に接しているにもかかわらず(そしてそうであるがゆえに)、ある一方的な認識が自己増殖的に拡大していき、それでよしと考えさせていることになかなか気づけないでいることなのです。私たちを取り巻く広い意味でのネットワーク社会の最大の落とし穴はそこにあるといえるかもしれません。



でも人間である以上、こうしたかならずしも適切とはいえない認識傾向を持ってしまうのを避けられないとすると、いったい私たちはどうした方略を持って物事を判断しあるいは行動すればいいのでしょうか。

 世の中のすべての事象には必ず表と裏が同じくらいの量や割合で存在することを意識しておくことは簡単な一つの方略といえるかもしれません。私たち人間は、自分が望むポジティブなものには積極的に目を向ける一方で、同量の関心を払うべきネガティブ・ポテンシャルにはいわば盲目になってしまう心理傾向があります。どんなにバラ色に見え、いいことしか考えられないものごとでも、かならずプラスとマイナス、メリットとデメリット、光と影があるはずと認識することです。ITやAIのように素晴らしいポテンシャルを持ち、私たちの生活を変え劇的に変え得るものでさえ、やはり同じくらい深刻なネガティブ・ポテンシャルがあるのです。

 今日本では、海外や外国人の間で広がる日本人や日本文化伝統への高い評価がさかんにさまざま取りざたされていると聞きます。テレビやインターネットでもそうした情報や番組コンテンツに人気が集まるために、そうしたいわば「ニッポンは素晴らしい」的傾向に沿った情報が供給されることになります。日本人の私たちにとっては、自分が帰属する集団への周囲の高い評価に、自分を同一化させる機会が増えることになるため、とても気分が高揚しクセになる体験になってしまいます。それは悪いことばかりではありませんが、本当に私たちが関心を持つべきは、「クールでない」ジャパンという裏の視点への同量の配慮と関心かもしれません。これこそが真の国際化と相互理解と信頼の心理的基盤となるものです。

 たとえばクール・ジャパンの代表格である「おもてなしのこころ」の裏の顔とは、滅私奉公や空気を読めとの社会的同調圧が適正な限度を超え強く、精神文化的な凝集性が過度に高い社会が陰に陽に要求する、あうんの呼吸や細かすぎる他者への気遣いと過剰なまでのサービスや便利への忖度、日常社会生活における自己犠牲と耐えることへの暗黙の称賛の空気であり、そうした結果としての痛ましい過労死や自死、いじめやハラスメント、繰り返される企業や政官界の不祥事、低い労働生産性や疲弊する仕事現場での人手不足の悪循環などです。そこにはむしろ外面(そとづら)を維持するあまり、自分や自分にとって本当に重要な近しい関係の他者(たとえば家族や職場同僚や従業員など)を犠牲にする、いわば「釣った魚にエサはやらない」的な損得勘定の人間関係を無意識のうちに構築してしまう危険がひそんでいるといえます。



 もう一つの方略は、外からやってくる情報をときにシャットアウトし、内なる答えとじっくりと向き合うことをおそれないことです。今まで何ら疑問をさしはさむことなく事実として受け入れてきた、私たちを取り巻く社会や人間関係、あるいは自分についての考えや意見、抱く悩みや迷いについて、「本当にそうだといえるのだろうか」と、いま一度深く問い直してみることです。これはある意味勇気のいることですし、時間をかけ繰り返し問い直されなければ、長い間に私たちにしみついてきた「常識」なり「結論」は容易に覆りません。これはどちらが正しくてどちらが間違いなのかという問題ではありません。心から問い直すことによって、全く異なる考えもあるいはまた、最初の考えと同じくらい真実があるかもしれないという可能性に開かれているることが、私たちの心にとってとても重要なのです。今や「沈思黙考」と言う言葉がもはや死語となりつつある時代なのかもしれませんが、私たちをとりまく社会的な環境情報の処理に終始することに偏重し、自分の中に正しく判断するための能力や材料が元々あるにもかかわらず、その内なる世界へ関心と注意が向かわず、ものごとを根本から考え決断し、試行錯誤してみるという習慣を欠くような日々の精神活動は、自己信頼や自尊心といった健全な精神が育まれにくい心の素地を生み出してしまいます。外から入ってくる情報は所詮有限なものですが、私たち誰もが持つ内なる世界はある意味無限の可能性をも秘めているとも言えるのです

カウンセリングには様々な問題を抱えた方がおいでになりますが、結果としてシンプルに「もっと自信をお持ちになってよろしいのですよ」「あなたが悪い、間違っているというわけはないのですよ」というひと言がカウンセリングの入り口であり出口でもある場合が多いかもしれません。つまり今までそれぞれが抱いてきた常識や考えが本当であるかどうかについてよく見直していきましょうということでもあります。それは簡単なことではありません。問題を抱えているときは誰でもそんなこと考えられないし、ゼロから自信などは生まれません。自分の中にはネガティブなものしか思い浮かんでこなかったのが今までの普通だったからです。

私たちの人生とは、答えの見つからず見通しもつかず不安ばかりに圧倒されそうな現在や未来、そしてときには過去について、常に何らかの決定を迫られる過程そのものといえます。そうした只中にあって、相談者のこころに無条件に寄り添い、困難を転機に変える決して気休めではない実際の大きな力としての『希望』を説きつづけるのもまたカウンセラーの仕事です。心理専門職との対話、コミュニケーションを足がかりにして、内なる世界に広がるポテンシャルを引き出す過程を体験することもまた、日常生活にありがちなさまざまな問題解決の大きな一歩になりうると考えています。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

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by yellow-red-blue | 2018-04-05 13:52 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、カウンセラーとして、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。ブログのどこかに、読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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