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とても気になること ~ 小満の頃’18


“矛盾をはらんでいない文学はありえない、と言うのがわたしの信念だ。矛盾があるということは、文学はそれ自体が無意味なるものだということだ。作品が無意味なら、その作家の人生を知ることになんの意味がある?それだけじゃない。たいていの作家の人生は、ふつうの人間の人生と似たようなものだ。自分の欠陥や欠点を文章で補おうとしてむやみにあがく、その点が違うだけだろう。そんな人生、誰が見ても面白いわけがない” (デボラー・クロンビー『警視の死角』、西田佳子訳、講談社)

 

 なるほど文学や作家についてこのような見方もあるのかと一瞬ドキリとしつつ、しょせん文学作品は、その作者が自分の人生や人間性の欠陥を言葉でとりつくろうとした結果の矛盾に満ちた無意味な個人的たわごとに過ぎない、と言われると、でもやっぱりそうではないだろうと抵抗を感じてしまいます。

 言葉の持つ真の意味や重みをさまざま創造的に表現することによって、定量的な分析や統計的な数字データに基づく科学的検証では把握し難い人の心の深層の理解が、一層深くリアルな実感を伴って私たちに迫ることだってあるからです。



 私が「自殺」という言葉を本当の意味で理解したのは、医学専門図書を学んだからでも学校教育で教わったからでも、また保健行政機関が発行する啓発パンフレットで知ったからでもなく、随分と昔、文学作品中のある一節を読んだからでした。


“死んだつもりで生きていこうと決心した私の心は、時々外界の刺激で躍り上がりました。しかし私がどの方面かへ切って出ようと思い立つや否や、恐ろしい力がどこからか出て来て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そしてその力が私にお前は何をする資格もない男だと押さえ付けるように云って聞かせます。すると私はその一言ですぐぐたりと萎れてしまいます。しばらくしてまた立ち上がろうとすると、また締め付けられます。私は歯を食いしばって、何で他の邪魔をするのかと怒鳴りつけます。不可思議な力は冷ややかな声で笑います。自分でよく知っている癖にと云います。私はまたぐたりとなります。

 波瀾も曲折もない単調な生活を続けてきた私の内面には、常にこうした苦しい戦争があったものと思ってください。(中略)

 私がこの牢屋の中にじっとしている事がどうしてもできなくなった時、必竟(ひっきょう)私にとって一番楽な努力で遂行できるものは自殺よりほかにないと私は感じるようになったのです。あなたはなぜと云って目を瞠る(みは)かもしれませんが、いつも私の心を握り締めにくるその不可思議な恐ろしい力は、私の活動をあらゆる方面で食い留めながら、死の道だけを自由に私のために開けておくのです。動かずにいればともかくも、少しでも動く以上は、その道を歩いて進まなければ私には進みようがなくなったのです。”   (夏目漱石「こころ」筑摩書房)


そこで私が理解したことは、自ら命を絶ってしまわれる方にいわゆる「(自殺)願望」などないということです。つらい、死にたいと思って自殺を選択するという「願望」なのではなく、それ自体がうつ病など精神疾患の症状であるということでした。いかんともしがたい症状の一つに過ぎず、結果として彼らはいやおうなく追い込まれるのです。インフルエンザにかかってしまったら高熱発症をとめることなど不可能であると同じように、それはただ起こることなのです。そこにもはや意思や体質、性格の入る余地はほとんどありません。精神医学や臨床心理学では、「希死念慮」といいますが、これはけっして「自殺願望」という言葉をマイルドなオブラートで包んだ言いまわしなのではなく、「自殺願望」という言葉が誤解を生むからなのです。

 したがって大切なのは、その希死念慮を本人や周囲がタブー視するのではなく、むしろ病気であれば無理からぬ症状として受け入れられるよう配慮することです。本人は生きていたくない、周りに迷惑をかけて自分などいないほうがいいのではないかと内心感じながら、そうしたことを人に言えず苦悩しているものです。「生きていることがつらいと思うことはありませんか」「でも、死にたいと思う気持ちはこの病気の症状として誰しもに起きることで、無理もないことをぜひ知っておいてください」「ですからあなた自身が本当に自殺したいわけではないのです」「治療していけば症状はなくなり必ず楽になりますから、一緒に頑張っていきましょうね」こうしたやり取りが本人の心の安堵に役立つことも知っておく必要があります。

うつ病の患者さんには、とかく「励まさない」「自殺のきっかけになるような話題は触れない」などと言われますが、症状経過を気づかいながら、正しい知識と気持ちに寄り添うような励ましはとても大切なのです。ところが...



「命を粗末にしてはいけない」「命の尊さを知って」「心の教育が大切」 

悲劇が起こるたびに、とりわけまだ若い児童青少年の痛ましい死の際に繰り返されるこうした主張。言葉の意図を重々承知しつつも、所詮生きている側の自己満足としか思えないなんと虚しい言葉であることかともときに思ってしまいます。訴える相手も言葉も違うのではないかと。これらは必要な励ましでも知識でもありません。むしろそういう言動の空気が彼らを精神的に追い詰めるのです。なにかいかにも死を選択せざるを得なかった人たち(そしてその何十倍もの数にのぼる未遂の人たちを含め)が、命を軽視してきたかのような物の言い方なり風潮が依然として根強いのには、強い抵抗を感じます。生きている側の人間、生きるに不都合を感じていない人からすれば、理性ではわかっていても共感することは難しいことかもしれません。「私たちだって思い悩みながらも精一杯生きている」「命を絶つ勇気をなぜ生きることに使わないのか?」

 

彼らだって死にたくはなかったのです。生きていたかったのです。命を大切に思い、死ぬことがどんなことか彼らほど痛切に感じていた人もまたいないのです。そして彼らほどその恐怖と闘った人もまたいないのです。それでも自死せざるを得なかった。そこまで追いつめられる人が何故かくも多いのかについて、私たち側がまず深く省みなければなりません。医療やメンタルケアの支援の充実は何よりですが、私たちが変わらなければ、それらの効果は限られたものとなってしまうからです。

私たちが命を大切に思うこころは、ただ命を自ら断つことはしない、できないという生物的防衛本能と、私たちがそれを「生きる中」で日々数えきれないほどの社会経験や情緒体験、学習を経て、血肉となって徐々に習得されてきたそれぞれの「感覚」であって、知識や理屈で教え込まれる類のものでもありません。生きる中に根ざさない、単なる上からの命と人権の教育が、一線を越えてしまうことを防ぐ効果的なストッパーになる保証はありません。「生きる中」のその中身が他を優先してきたがために貧相なものになってしまっている社会の現状こそ見つめ直さなければならないと思うのです。



参考ブログ記事(遠い夜明け

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by yellow-red-blue | 2018-05-21 13:48 | Trackback | Comments(0)

刺激ある人生、けれども... ~ 立夏の頃’18


ゴールデンウィークの後は、全国的に雨模様の肌寒い陽気へと逆戻りの予報が出されているようです。それでも、花粉や黄砂が舞いまだまだ冷たい春風に上着やコートが欠かせなかった(私にとって)つらい季節もようやく終わりを告げ、早朝から窓を開け放ち、爽やかでみずみずしい大気を思い切り室内に招き入れ、初夏の心地良さを日々味わえるようになったのは嬉しい限りです。

元気よくあちこち飛び交う小さなツバメの姿や、早朝の静かな空気によく響く野鳥の一風変わったさえずり、新緑を優しくなでるように流れるそよ風と柔らかな木洩れ日、お目当ての草花を求めてあたりをひらひらと舞う蝶の姿。初夏にふさわしいあたりの情景にふと気づかされると、せっかくのゴールデンウィークだからとレジャーに特別足を伸ばさずとも、なんだかもうそれだけで満ち足りた気分になってしまいます。


かくも安上がりにできている私ですが、ところで、人には外界からの刺激や社会環境に対する感受性の程度にかなりの個人差があることがわかっています。そしてこのことが私たちそれぞれの性格形成にも少なからず影響を与えています。

その感受性の程度の個人差をもう少しわかりやすい別の言葉で言い換えると、「刺激欲求」の個人差と言ってもいいでしょうか。刺激欲求とは、多様で新奇、刺激的な物事の経験や感覚を欲し、身体的、社会的、法的、経済的冒険を志向する傾向にある性格を意味します。ごく大雑把に言って、刺激欲求の強い人は外向的な性格傾向を持つ人、逆に刺激欲求の強くない人は内向的な性格傾向の人に近いと言われています(心理学では、人格やパーソナリティ、性格、気質など、人の性質を表す言葉をそれぞれにある程度定義されて使いますが、ここではより一般的、通俗的な使い方としてそれらをあまり区別することなく使っています)

この「刺激欲求」については、たとえば最近の研究から身体の神経システムにおける「最適覚醒水準」との関連性も示唆されています。つまりたとえば、刺激欲求の強い外向的な性格傾向を持つ人は身体の神経システムが興奮しにくく、強い刺激でないと当人が快適満足できる水準に達しない一方、内向的な人は、外向的な人が要求する水準の刺激では、神経システムが興奮しすぎ不快な覚醒の水準に至ってしまうというものです。

こうした神経システムにおける体質的な個人差と心理学的な性格の理論の関連性はまだはっきりとはわかっていませんが、私たちが外界刺激に対してそれこそ三者三様の感受性を持っていることは確かなようです。その一方で私たちはまた、自身を取り巻く複雑で多様な人間関係をはじめとする社会環境情報の処理をまずまず的確に行い、適応することを日々求められます。そうした社会的要求と自らの個性との間のバランスというか、さじ加減が実に難しく悩ましい時代に私たちは生きています。結果そのはざまで、精神的困難や変調に苦しむ多くの人々が存在しているのです。


“外界への関心と依存が高く、積極的に外に向けて行動する傾向で、社交的でポジティブな思考を持ち、物質的価値観や上昇志向が強く、興奮することや刺激を求めるエネルギッシュな特性で、自己表現が得意なある意味自信家でもあり...”

これがいわゆる外向的性格特性です。これだけを見れば、なるほど今の社会において、特に職業生活上の適性としては、まことに望ましいというか喜ばしい性格傾向といえるかもしれませんね。

けれども、私たちの性格や人格は、代表的な際立った1つの要素だけで説明なり決定されているわけではありません。内向性をはじめその他重要な様々な性格的要素がミックスされそれぞれに唯一無二の個性をかたちづくっています。それらは等しく価値があり、上手にバランスされているのが本来好ましい人間像と言えるべきなのですが、今の社会を見ていて、またカウンセリング現場で感じるのは、国の施策や企業活動が暗に求めている人物像が結局のところ、いわゆる刺激欲求の強い外向性に傾いた人に集約されているようにも思えてくることです。

また、私たちの性格は決して固定されているものではありません。持って生まれた気性のようなものはあるとは言いながら、それぞれの人生の過程で(特に若い世代においては)絶えず変容・成長するものであり、状況に適応する力もあります。ところが本来予想だにできない複雑で豊かな存在であるはずの生身の私たち人間の個性が、昨今話題のビッグデータやAIによる評価システムやプロファイリングによるデータ数値化された固定的人間像に取って代わり、そうした属性に基づいた個人の選別化、セグメント化が様々な分野局面において今後急速に進むことが予想されることについては、なにか強烈な違和感と危惧とを感じてしまいます。歴史的にまた現在においても、欧米的諸価値観の強い影響を受けながら、経済先進国として経済成長や企業利益確保がまずもって優先され、物質的価値至上主義がある意味本音であるような資本主義体制のわが国においては、無理からぬ時代のすう勢なのかもしれません。



本来、外向的な人間として真に価値があるのは、その特性が際立っているからなのではなく、他者理解や内的洞察の深みと複雑さ、思いやりと共感力の高さといった、内向性をはじめとするその他の人格的諸要素との間に豊かなバランスが備わっている場合に限ります。にもかかわらず、ややもするとたとえば内向性は単純に「外向的でない」性格ベクトルとしてネガティブなレッテルをとかく張られがちです。それは心理学におけるパーソナリティ評価であったり、インターネットなど各メディアでさまざま取り上げられる簡易で安直ともいえる性格判断や適性診断などでもそうした傾向があるようでとても気になります。外向性にも内向性にもとても素晴らしい素質がたくさんあり、本来は価値平等的に評価されなければならないはずです。多かれ少なかれ私たちは皆こうした多くの性格特性を何らかの割合で持っており、それらの特性が著しくバランスと柔軟性、適応性を欠き、持続的に精神的な苦痛を伴う場合に限って、パーソナリティの問題として慎重に考慮すべきなのですが、それをあまりに安易に色分けしたりレッテルを貼ったりするのは誤った判断といえます。

こうした偏った性格特性の重視や社会の精神性の在りかたには、必ずもう一方、足りないものへの要請なり揺れ戻しが、たとえば精神障害や格差社会、社会的弱者やハラスメントといった深刻な社会のひずみとなって表面化していきます。すでに十分すぎるほどのSOSを発している現状があると思うのですが、それらを国としての成長と繁栄のためにはやむを得ないコストであるとして暗に切り捨て見過ごすような社会の在り方は、とても健全なものとはいいがたく、むしろ病的ですらあるのでは、とふと考えてしまいます。

 

 ちょっと大げさな話になってしまいました。カウンセリングにおいてもまた、相談に訪れる方々の悩みと対峙しながら、それを単なる個人の問題に矮小化することなく、彼らの心の叫びの背後にある社会的文化的要因や国の舵取りへの深い問題意識や批判的精神が必要であることを日々痛感しています。

 


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by yellow-red-blue | 2018-05-06 21:59 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心安らぐ経験や出会いなど、時にカウンセラーとして、時に仕事から離れ、思いつくままつらつらと綴っています。ブログのどこかに、読む人それぞれの「わたし」を見つけてもらえたら、と思っています。


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