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カウンセリングとはなんですか? ~ 大暑の頃’18



『人間の発達過程において認知的、情動的、行動的機能に影響を及ぼし得る遺伝と環境の相互作用の多様性は、事実上、無限の広がりを見せている。』

 (「DSM-5精神疾患の診断・統計マニュアル」米国精神医学会編、染矢俊幸 他訳、医学書院、2014年)

私たちは長い人生を生きていく中、日常生活のさまざまな場面でストレスを感じる出来事や問題に直面し、悩みや不安を抱えます。そうした状況に継続的あるいは常態的に置かれれば、さまざまなストレス症状や病気を発症することもあります。うつ病などに代表される精神疾患は、今やがん、脳卒中、急性心筋梗塞、糖尿病とともに、国民に広く関わる疾患として、国として重点的に対策が必要とされる5大疾病のひとつにまでかぞえられるようになりました。

今日の社会において、私たちは目まぐるしく変化し多様化する社会環境や人間関係への適応と自己のアイデンティティの見直しを絶えず迫られつつあります。それなりに努力を重ね身につけてきたはずの過去の経験や学習が、十分生かされないまま時は進み、それらはすぐ役割を終えて過去のものとなってしまう時代といえるかもしれません。かつて私たち一人ひとりが当たり前のように頼り、支えられてきたはずの家族血縁や地域社会、伝統規範などの精神的絆の求心力が急速に衰える中、変化に耐え順応することを求める社会の流れに心理的な抵抗や不安を抱えながら生きる人びとが世代を超えて増えているのが実情と言えます。ストレス社会と言われる今の世の中では、むしろ何のストレスも抱えずに生きている人の方が少ないのでしょう。

症状の重い精神疾患から、学校・友人関係、親子・夫婦関係などの家庭問題、結婚や離婚、職場や仕事、病気や経済的問題といった、日常生活の中で起こりがちな困難から来るストレス性のメンタルの不調まで、症状の程度の差こそあれ精神的に苦痛を感じ生きている人は少なくないでしょう。またストレスは誰にでもあることだとして、つい私は大丈夫だ、あいつも大丈夫だろう、あるいは気にはなるが相談しづらい、などと判断を誤ってストレスフルな状態を放置すれば、より症状が深刻化し日常生活にもさまざまな影響が出てしまうリスクにも直面します。

そのような精神的困難の問題解決の一役を担うのが、カウンセラーでありカウンセリング(精神療法、心理療法、セラピーなど、治療対象や使う立場、療法などで呼び名・定義はそれぞれですが、ここではカウンセリングという言葉を主として使うことにします。)と呼ばれるものなのですが、ではそもそもカウンセリングはどのようなものなのでしょう。なぜそれが必要だと言われているのでしょう。あらためてカウンセリングについて少し考えてみたいと思います。




私たちが何らかの体調不良や身体的に異常を覚えたら、まず内科や外科などお医者さんへ行きます。専門の医師などから問診や検査を受け、なんらかの診断病名を伝えられ必要な治療を受けます。その治療方法といえば、病気によっては入院手術ということもあるでしょうが、私たちの多くが経験上知る治療の主体は、処方された薬を服用したり注射をされたりするいわゆる「薬物療法」であることはお分かりと思います。

これは、精神的な不調や異常を訴える場合も基本的には同じです。(一般の医療機関に比べてまだまだ受診にためらいはあるとはいえ)精神科や心療内科などの専門機関を受診し検査診断を受ければ、その治療の基本となるのもやはり薬物療法です。

一般の病気が、何らかの臓器など身体器官の異常を原因とするものであると同じように、精神的異常ないし不調もまた「脳」という臓器の何らかの異常である、という生物学的精神医学の立場に基づいたこの薬物療法の有効性は高く、多くの精神疾患などには欠かせない治療法です。

けれどもそのいっぽうで、薬物による治療だけでは疾患の治療や精神的問題が解決しないのもまた事実です。心の働きが脳という臓器によって実行されるもので、薬物療法がその症状をコントロールするうえで大きな力を発揮するのは事実なのですが、私たちの心の悩みや葛藤そのものについては薬だけで必ずしも解消されるものではなく、生物医学的な立場だけでは語れないむずかしさを含んでいます。




そのむずかしさについては二つのことが言えると思います。ひとつには、問題の起きている現場がいわば「身体」ではなく目に見えない「心」であるということ、そこがむずかしいところです。つまり、私たち人間の心の中で起きている人それぞれの「主観的な」体験や思考、感情を扱う必要があることから、一般の内科や外科で扱うような目に見える病気の治療とは違ったアプローチなり方法が必要なのです。

むずかしさの二つめは、精神的問題はさまざまな要因の複雑な相互作用によって起きるということです。先天的要因、幼児期の生活体験や、成長過程での学習や体験とその結果形成されたパーソナリティ、社会環境や養育環境、さまざまなライフ・イベントで直面するストレス状況など各種の要因がさまざまな割合で関与し、冒頭にも引用したように、症状も含めそのバリエーションはまさに無限です。そうしたことについて心理的な視点も考慮に入れなければ、問題を理解することがむずかしかったり、薬物による治療効果が十分に発揮されないこともあり得ます。特に精神的な問題は、生物学的な治療法に100パーセント還元することのできない微妙な問題を含んでおり、そこに対処するのが「薬物」療法に対する「精神」療法、つまりカウンセリングです。カウンセリングは薬物療法と並んで精神的問題を治癒するため不可欠の柱であり、このふたつは車の両輪といえるようなものです。重い症状の人には薬物療法が、軽症の症状がカウンセリングである、などと一概に言うことはできません。精神的問題への対処はあらゆる点であくまで柔軟かつ慎重な姿勢が求められます。「精神科を受診したり精神病の薬を飲むのは嫌だから、代わりにカウンセリングで治せないか」などと誤った認識を持っている人もいますので、誤解のないよう丁寧な説明や正しい知識の伝達が大切です。




カウンセリングとは、心理的なコミュニケーション・対話を通じて相手の気持ちを支え楽にし、抱える問題や症状を治癒へと導く総称であり、数多くの技法や療法も存在し、すそ野の広い概念といえます。カウンセラーと呼ばれる職業の人々だけでなく、医療現場の医師やその他の医療従事者、社会の現場でさまざまな立場の人が行う教育や生活相談、生活指導なども心の治療といえます。たとえば信頼のおけるお医者さんから、丁寧でわかりやすい病状や治療方針についての説明を受け、「それはつらかったですね。でも必ず治りますからいっしょに頑張りましょうね」「まずは休養を十分とりましょう」などと優しく接してもらえれば、患者さんも不安な気持ちが和らぎ治療に前向きにもなれます。これも広義な意味での精神療法、カウンセリングといえます。単に専門のカウンセリング・ルームでカウンセラーと一対一で向かい合うことだけを意味するものでもありません。

そのカウンセリングが私たちの精神にさまざまな効果をもたらすことができる理由は、私たち人間が、親密なコミュニケーション関係を構築することによってきびしい環境を生き延び、進化してきた動物であり、そしてその長い間に培われてきた心を通わせるための経験と知恵がカウンセリングのルーツであるからだといえます。カウンセリングとは、そうした私たち人間に脈々と受け継がれてきた優れたポテンシャルを精神医学あるいは臨床心理学的な知見や技術に基づいて解釈し直し、より一層困難な問題解決に特化させたコミュニケーション技法といえます。こんにちの私たちが抱えるストレスや問題、願望は様々ですが、そうした課題の多くは、私たちが人生を送る中でそれぞれが自然と身につけてきた実践知(経験・学習知)に頼るだけでは対処しきれなかったり理解することが難しいものです。それらを上手に乗り越えていくためのより洗練されたツールとしてカウンセリングがあると考えていただけるとわかりやすいかもしれません。相談者や患者がストレスや症状という「姿」を借りることなしに、その背後にある自分のもっと深いところの気持ちに気づいたり言葉で表現できるようさまざまお手伝いすること。そこがカウンセリングが単なる「お悩み相談」でないゆえんです。




ただし、カウンセリングはそうした学術的・科学的根拠などに基づくものではありながら、あくまで相談者やクライアントのためにあるものであり、わかりにくいプロセスであってはならないと思っています。カウンセリングの実践では、単に学んだ知識や技術の適用では解決できない予想外に困難な事態の連続です。今日の複雑な社会状況において私たちの抱える心理的ニーズは多様で、したがってよりきめ細やかで柔軟な対応が求められます。一見すると精神的分野とは異なる日常のさまざまな相談事がカウンセリングに持ち込まれることも珍しくありません。そうしたことにも丹念に耳を傾け相談者に安心を提供することもカウンセラーの大切な責務です。相談者の疑問に対して誠実に向き合わずに、つい専門的知識や抽象的な表現に逃げてしまったり、心の問題は複雑であるからとして長期にわたるカウンセリングを安易に選択してしまうことのないようカウンセラーは十分な配慮をするばかりでなく、心という目に見えないものを扱うことで、相談者がカウンセリングやカウンセラーに何か非日常的、万能的な力の源泉を期待させるような言動の誘導も慎まなければならないことは言うまでもありません。

相談者が自分の状態やカウンセリングに関して、率直な疑問を口にしたり、納得のいく説明を求めたりすることのできる環境と信頼関係づくりに常に開かれているかどうかが、私たちカウンセラーに最も問われることだと思っています。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂

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夏期短期終結カウンセリングの実施について

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by yellow-red-blue | 2018-07-26 00:09 | Trackback | Comments(0)

恐れる私たち、頑張る私たち ~ 小暑の頃’18


活発な前線の影響がもたらす西日本を中心とする数十年に一度といわれる集中豪雨による甚大な被害は、すでに100名を超える死者行方不明者を数え、これを書いているちょうど七夕の日でもその数字は増える一方です。亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、いまだ救出を待っている多くの方々に一刻も早い救いの手が差し伸べられ、また多くの避難されている方々に少しでも早く必要とされる救援物資が届けられ、もとの日常が戻るのをただ願うばかりです。


今回のような私たちの想定をはるかに超える自然災害の被害は、近年世界各地で起きています。それは温暖かつ安定した気候帯にあり、高度な土木・治水技術水準を備えた日本や欧米のような地域においてもまた例外ではありません。とりわけ、安全と安心がいわば当たり前のような国に住む私たちのような人間にとっては、こうした人智を超える圧倒的な自然の猛威に曝され予想を超える犠牲者が出ると、それに対するショックは逆に相当なものです。自然災害は避けられない現象であるにしても、少なくとも災害対策が進み防災意識もそれなりに高い国では、それはあくまで「対処可能な」現象で、滅多なことでは犠牲者など出ないし出さないことが当たり前のこととして受け止められてきたからでしょう。いつしか私たちは自然の脅威に対して、すでにおおむね「克服している」との過信と錯覚があるのかもしれません。

こうした異常気象が、温室効果ガスを原因とする地球温暖化にあるとされているのはよく知られています。しかし考えてみれば、原因が人為的なものであるにせよないにせよ、地球の歴史とはある意味大規模で不規則な気候変動の連続であり、それが同時に様々な生命と種の勃興と進化を促してきたと言えます。人類もまた何度となくそうした試練を乗り越え、そして今の私たちがあるのですが、その乗り越えてきた試練とはすなわち、ここに至るまでのおびただしい数の命の犠牲にほかならない。今度の災害を目の当たりにしてそのことをあらためて痛感します。


ひょっとすると、日本列島というこの海に囲まれた小さな島国に生きてきた日本人は、とりわけこうした自然の猛威に人一倍神経質な民族だったといえるかもしれません。

日本列島は、本来稲作に適さない風土、気候だったと言われています。稲作の発祥は、日本よりずっと南の緯度に位置する中国南部の揚子江沿岸で、つまりより温かい地域に適した作物でした。稲作がその後中国大陸を徐々に北上し伝播されたとする縄文後期~弥生初期は、日本は今よりずっと寒冷な気候であったため、日本列島は稲作を中心とする定住農耕という生き方が馴染むには、かなりの困難が伴う風土であったのでしょう。今回の集中豪雨の被害のように、わずか数時間前までは何の異常もなかったのに、気が付けばあっという間に洪水の波にあたりすべてが押し流され身動きも取れなかった、と似通った非常事態は、おそらくかつてはもっと日常的にあったはずです。そして私たちの暮らす今の社会と決定的に違うのは、ひとたびそうした事態が起これば、それはほとんど例外なく生命の危機を意味していたということです。立ちはだかる圧倒的な自然の脅威への恐怖は尋常ではなく、私たちの祖先は過去のほとんどの時代を、犠牲と恐怖、無力感とに打ちひしがれてきたのかもしれません。

日本の八百万(やおよろず)の神の信仰とは、いってみればそれほど数えきれない数々の自然の脅威にさらされてきたことの裏返しでもあります。そこから逃れることはできないことを悟った私たちの祖先の叡智であり、生き残っていくための救いの指針だったのでしょう。無力な人間がなんとか生き抜いていくために自然とどう「折り合い」を付けていくのか。自然を恐れ、明日への不安と隣り合わせの毎日に生きながら、同時に生きる恵みをもたらす生命の根源を神々として感謝し敬うことが、唯一の希望であり生き伸びるための条件だったに違いありません。

自然とともに生きるとはそういうことなのでしょう。自然と対峙し、それを探求し、科学し克服するという西欧的な考え方とはそもそも異なる自然観・宗教観が私たち日本人には備わっていると言われるのもうなずける話しです。

こうして、常に周囲と自然に敏感に気を配りながら生活をし、その脅威とどう折り合っていくかが生きる目的そのものですらあったかもしれない私たちの祖先達の深層心理には、精神的バックボーンとしての「恐れる」ことが深くに刻み込まれていったように思えます。そしてまた、社会的動物である人間にとってやがてその「恐れる」とは、自然との関係のみならず社会に共に暮らす人間同士の関係においてもまた必須の精神となり、今に受け継がれてきたと言えます。集団生活の中で生きていくしかなかった私たちの祖先達にとって、仲間外れにされ疎外感と孤独を味わうことほどの「恐れ」はなかったであろうからです。行き過ぎた周囲への配慮と空気を読めの圧力から、昨今世界的にも注目されているとしてさかんにもてはやされている、おもてなしの精神やきめ細やかな日本式サービスの精神に至るまで、肉体労働でも頭脳労働でもない、「感情労働」化が著しい社会現場でのこうした日本独特の配慮の根底にあるのは、案外この「恐れ」なのかもしれません。



その「恐れる」と並んで私たち日本人の持ついま一つの深層心理、それは「頑張る」ではなかったかと思っています。理由は「恐れる」とほとんど同じものです。つまり日本人の生きてきた小さな島々は、人が頑張らなければ生きるに困難な場所で、そしてこれからもずっとそうであり続けるということです。

 とても小さなわが島国は、そのほとんどが人の住むことの困難な山間部です。人が住めるのはほんの3割あるかないかです。そこに数多くの人間がひしめき合い暮らさなければなりません。地震や火山、大雪や頻繁にやってくる台風、ひっきりなしにやってくる自然災害・天災のオンパレードに加え、資源のほとんどない日本列島に生きてきた日本人にとって、残された資源・財産は人間、つまり頼れるのは人だけでした。懸命に「頑張る」ことそのものが唯一の資源・財産であったのです。「頑張る」は実に便利な言葉であり、私たち日本人はそこに多様な意味・思いを含ませ使ってきましたが、それこそが「頑張る」がまさに私たち日本人を支えてきた精神的支柱の証と言えるかもしれません。何もなく生きるに厳しい土地、だから人が頑張らなければならない、他者あっての自分。自然や人について「恐れ」「頑張」ることで何とか生き延びてきたのが私たち日本人なのかもしれません。


そうした私たち深くにある「恐れる」と「頑張る」がどのような形で現われるのか、人それぞれ、また時代の要請でもまたそれぞれでしょう。しかしそれらはことによると、ときに人をたやすく疲弊に追い込む心理かもしれません。

「頑張る」と「恐れる」の折り合いが今の日本人にとりわけ必要なことなのでは、とも思います。なんとなく今の社会は、「頑張る」だけがその先に必ず進歩や豊かさであるとして、突出して優先・称賛される社会に思えるのです。豊かさや便利さ、進歩とは実際のところ何なのかをいったん考え直し、ときにあらため方向転換をし、どこで「恐れる」こととと折り合うのかを一人ひとりが考える。それらをすることなしにつき進めば、後日必ず同じくらい大きな災いが身に降りかかることとなるか、あるいはまた、すでにそうした犠牲がさまざま起きているのに見てみぬふりをすることになる。それは自然だけでなく人間の社会生活においてもまた同じだと思うのです。


昭和の有名な流行歌で水前寺清子さんの唄う「365歩のマーチ」の歌詞の中に、『三歩進んで二歩下がる』とあります。苦労もあるし失敗もある、だけれどもひたすらみんな頑張って前へ進もうよ。幸せはお金で買えると信じ、物質的豊かさと経済成長に向かってひたすら前進していった、昭和高度成長期の時代のムードそのままのような唄ですが、三歩進みながらほんとうに二歩「下がる」のであればある意味大変結構なことです。しかし実のところ、三歩進んで「二歩切り捨て」きたのが日本ではなかったかと、ふと思ってしまうのです。決して後戻りせず待たずに、三歩進むだけ進み、あとのことは後回しにする。そしてその負の遺産を押し付けられてきたのが、責任を取るべき者ではない他の誰か、将来の誰かであり続けるとするなら、よほど私たちは今の時代状況を憂慮すべきであると思うのです。



私たちは、いつの時代も「恐れる」と「頑張る」の両極のどこかに絶えず揺れ動きながら生きる存在です。人生を通してアクセルとブレーキを上手に使い分けることは予想以上に難しいことかもしれません。ひたすらアクセルを踏み続けようとする人、せっかく青信号なのにブレーキペダルから足を話せない人、アクセルとブレーキの両方を踏んでいることに気づかず、なぜ自分はうまくいかないのか悩む人。「頑張る」は過信と自他への配慮と思いやりの欠如をはらみ、「恐れる」は自尊心の低下や悲観的な思考感情と無縁ではありません。自然との共生や社会における共生とはいったい何なのか。「頑張る」の意味を問い直し、「恐れる」ことに無条件に配慮してみることが今求められているかもしれません。

人間とは、常に最善を期待しながら、それでいて最悪に身構える生き物であり、人生とは、いずれにせよ、そして良くも悪くも、なにごとも決して思い描いた通りに運ばないことを知ることなのでしょうそうした心の深層の現れとしてのさまざまな課題を扱うのもまたカウンセラーの仕事です。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂

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by yellow-red-blue | 2018-07-08 15:17 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、カウンセラーとして、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。ブログのどこかに、読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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