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All Rise ! ~ 霜降の頃’18


少しひんやりとした澄んだ空気と青空のはるか先に、雪化粧をまとった富士山の姿が美しく映えるのがとても印象的です。そのすぐ傍らを、大きな夕陽が西の山々に沈む情景を眺めていると、秋もいよいよ深まってきたことを感じます。

実り・食欲の秋、読書・芸術の秋、スポーツの秋などとさまざまな表現がなされる通り、秋は人の感性を静的にも動的にも一層刺激する季節なのかもしれません。

そのスポーツの秋といえば、日本だけでなく、世界各地でも多くのスポーツ競技がまさに熱戦の佳境を迎える季節です。海の向こう、野球の本場アメリカでは、メジャーリーグ(MLB)がいまちょうど、各地区・各リーグのチャンピオンチーム同士がNO.1の座をめぐって激しい戦いを繰り広げるポストシーズンの真っ只で、シーズン最高潮の盛り上がりを見せています。普段ほとんどテレビを観ない私ですが、メジャーリーグは昔からのファンで、特にポストシーズンを迎えるこの時期は、普段部屋の隅に追いやられている小さな液晶テレビを引っ張り出して、その熱戦につい見入ってしまいます。



 ところで、昨シーズンメジャーリーグの名門ニューヨーク・ヤンキースに一人の若者がすい星のごとくデビュー(正確には一昨年の途中のデビュー)し、いきなりの華々しい活躍とずば抜けた成績で話題となりました。アーロン・ジャッジ選手です。2メートルを超える巨体から繰り出される桁違いのパワーと高いバッティングスキルでホームランを量産、ヤンキースの快進撃をけん引し、圧倒的な支持を得て見事昨年の新人賞を獲得しました。その圧倒的なパフォーマンスもさることながら、若者らしからぬ謙虚で清々しい立ち振る舞いで、ファンの間でも絶大な人気を誇り、2年目の今シーズンは、もはやヤンキース不動の看板打者であるばかりか、まさに新世代メジャーリーガ―の象徴としての存在感すら漂わせる選手なのです。

 けれどもその彼が人々を強く惹きつけてやまないのは、そのパフォーマンスだけでなく、その名前(姓)であるジャッジ(judge)にもあることがわかります。その第一義的意味は、裁判官あるいは判事。苗字としてはアメリカでもやはり珍しい部類に入るようで、特別な響きと余韻をアメリカの人々にも与えるようです。法と正義の名の下公正な裁判を主催し、犯罪と悪を裁き審判を下す善良なる魂の守護者、絶対権力者である裁判官という名は、勝負を決める一発で相手を葬り去る男、ここ一番に決定的な仕事をする頼れるバッターとしてのイメージと完璧にマッチするのでしょう。

 ヤンキースの本拠地ヤンキーススタジアムのライトスタンドの一角には、彼の活躍を応援しようと、Judge's Chamber(裁判官室)という名の観戦エリアがチームによって特別に設けられ、試合中そこに座る観客がフェイクの法衣やかつら、木槌で仮装し、All Rise!(全員起立!)と書かれたボードを振りかざし、ジャッジ選手の打順が来るたびに熱狂する光景が繰り返しテレビで映し出されるのがお約束になっているほどです。それほどジャッジ(judge)という言葉には、どこか人を惹きつける威厳ある決定的な響きがあるのでしょう。



つい、好きな野球のことで熱弁をふるってしまいましたが、この単語judgeは私たち日本人にもお馴染みで、司法あるいは法律的文脈で用いられるだけでなく、一般的な意味合いとしての裁く、判断する、断定するという意味でも日常的に用いられる言葉です。そして、人間である以上私たちの誰もが実は毎日、というか瞬間瞬間ごとに行っている認知的作業がこのジャッジ(ジャッジメント)なのです。私たちはジャッジすることなく生きることはできないと言っていいほどです。ジャッジすることでいわばその後の自分の行動や振る舞い、感情が決定されていく。ジャッジその連続がまさに生きることに他ならない、といってもいいかもしれません。私たちの感覚知覚機能に取り込まれたり喚起されるすべての情報や出来事、記憶について何かにつけ常に私たちは裁いて(ジャッジ)しているのです。これは人間にとって生きるに当然かつ必要な行為であって、オートマチックに実行している作業なのでそう簡単にやめることはできません。やめることの方が不自然でしんどいくらいなのです。



ところがこれを常に正しく安定して機能させることはなかなかに難しいことのようです。私たちは時としてというかかなりしばしば、「ジャッジしすぎ」てしまうのです。他者を、自分を取り巻く状況や社会を、そしてとりわけ自分自身を。そしてそのジャッジメントをそのままあたかも事実、真実であるとして許容し続けてしまうというリスクを負って生きています。

本当かどうなのか事実か定かでないことに決定を下してしまう。うまく説明のつかないことに対して苦し紛れの都合のいいジャッジを相手に押し付けてしまったりする。勝手なジャッジ同士をぶつけあいすれ違いや摩擦を生んでしまう。もう過ぎ去った遠い過去に下したジャッジでいまだかたくなに自分や周囲を裁き続け、苦しんだり苦しめたりし続けてしまう。どうなるのかわからない未来のことに不要なジャッジを下して、不安に思い途方にくれたりする。私たち人間はそんな生き物といったらいいでしょうか。ジャッジしてしまうがために、自分と周囲に起きている変化を感じとれず乗れ越えられず、考え過ぎてストレスを溜め込んだり、過剰に自己防衛に走ったり、却って窮屈な生き方を背負い込んでしまいがちな人が多いことに気づかされます。

ジャッジするという行為そのものが悪いわけではありません。前述しましたがジャッジしてしまうのが私たち人間なのですから。ジャッジがひとつの判断なり評価に過ぎないことを超えて、それを動かしがたい事実、決して覆ることのない真実としてオートマチックに信じてしまい、そこにがんじがらめになることが、私たちの日常にとっていかに有害なものかについて、ひとり気づくことはかなり難しい、というところがとても悩ましいのです。それがあたかも当たり前のこととして私たちは受けとめているからです。ジャッジしているなどとはなかなか自省することのできないのが、残念なことに私たち人間と言えるかもしれません。



カウンセリングは言ってみれば、そうした相談者が下してしまっているジャッジとはどのようなものであるのか、そしてそれはどうしてなのか、ジャッジそのものを止めようと躍起になったり、ジャッジしたくなる気持ちを否認するのではなく、どうすればそのジャッジを手放すことができるのかを一緒になって考えていく作業でもあります。

考えてみれば、カウンセラーも常に相談者とその相談者が抱える問題をあらぬ方向へと裁いてしまうリスクを常に背負っていると言えます。憶測や偏見、過去の学習や経験、専門的知識などへと逃げる形で。そうしたことはときに避けられないとしても、その流れに完全に乗ってしまう前にその外へと一歩踏みとどまり、まずもって相手の気持ちや言葉に対して無条件に肯定的に寄り添ってみること、そしてつねに下されがちなジャッジを意識しつつ、それをひとまず脇に追いやり、相手の話す世界そのものに入っていこうとする姿勢は、カウンセラーだけでなくすべての人間関係に本来必要な心構えなのかもしれません。「無条件に肯定的に寄り添う」といっても、それは相手の考えや意見に同意することでも、またそうしたことに自分を合わようとしたりすることでもありません。相手の言わんとしていることはまさに相手側の事情であり、そのように相手が実際に受け止め感じていること自体には偽りはないのであるから、そこにこちら側の事情や価値判断のフィルタを持ち込まずに、まずもってただそっくりあるがままに真摯に受け止め、理解しようとする態度が大切だというわけなのです。

とはいいながら、精神医学や臨床心理の世界でさかんに言われるこうした「無条件の肯定的な配慮」であるとか「執着を上手に手放す」という態度は確かに立派ですが、正直なところそれが本当にどのような意味を持つのか、どうすればそんな姿勢を維持し続けることができるのか、私にもちゃんとはわかっていないのだと思うのです。

日々のカウンセリングの中で一人ひとりの相談者と向き合って、私の、あなたのそれぞれのジャッジをていねいに辛抱強くたどっていく精一杯の姿勢が、今の自分にできる数少ないことのひとつだと感じています。

優しく、信頼されるAll Rise!をいつも心に響かせることができるよう。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂

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イチローさん

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by yellow-red-blue | 2018-10-24 23:57 | Trackback | Comments(0)

生きるは芸術 ~ 寒露の頃’18


仕事場の窓の外にある手すりに最近トンボが止まっているのを、ふとよく目にするようになりました。街中でもあちこちさまよう姿を時折見かけます。近くの通り沿いに立ち並ぶけやきの木のいくつかの葉がほんのりと色づき始めたのを眺めながら、こうして東京にも秋の気配が徐々に深まりつつあることに気づかされます。街中ではすでにハロウィンの気配が濃厚な一方、日本各地では稲刈りも終わり、秋の実りも収穫の時期を迎え、本格的な紅葉の便りが各地から聞かれ始めるそんなこの頃はまた、今年も残すところいくらも残されていないことにふと少し寂しく気づかされる季節でもあります。



先日、俳優の國村隼さんが、ある国際映画祭の審査員を務めた折に次のような発言をしたと、インターネット上のニュースが伝えていました。


「人々には今起きている葛藤や苦痛の中で生きるよりも、明るい未来の希望や温かい過去の記憶が必要だ。だから、なぜ今このように厳しい状況になっているのかが知りたいから、多くの映画が作られているのではないか」

 

 このシンプルなコメントは、映画に限らずすべての芸術や創作表現活動の根底に共通する本質的な問い、なぜ人間にとって芸術や文化が必要不可欠な営みなのか、に対するひとつの答え(あくまで一面についてですが)として、とてもしっくりくるように私には思えました。なぜなら、私たちにはそれらが必要であり、社会においても人間が生きるにおいても不可欠のものであると感じてはいながら、それはいったいどうしてなのかということについては、あまりよくわからずにきたからです。

考えてみれば、私たち人間が、身のまわりに起きている物事や存在する対象について、現実的、即物的な意味以上の何かを感じとる必要がないとしたら、そうした芸術や文化は必要ないでしょう。そんな面倒なことは考えずに、目に映る世界をただありのままのものとして捉え、実際起きたり見えている事物や関係、客観的な数字やデータだけに目を向け生きていくだけでいいではないか、その方が世の中はずっとうまく流れるかもしれず、少なくとも物質的には恵まれた世界を作ることができるであろう、という考えもある意味悪くはありません。

けれども、なぜか私たちは、文学を単に「インク」+「文字」+「紙」とは考えないし、絵画とはキャンバスに塗りたくられた絵具の複雑なパターンとは考えられない。さまざまな楽器の発する音の重なりに、わざわざ「音楽」という感動と精神的高揚までも植え付けようとする。私たちは、そこに客観や事実以上の捉えがたい何かしら深い意味やメッセージを込めたり読み取る作業過程を通じて、私たちの人間性や社会、文化がより豊かで洗練されたものに鍛えあげられていくと信じているのです。つまり、芸術や文化のような創作表現活動の価値が、現実や事実とは次元の異なる、いってみればさまざまなフィクションや錯覚、バイアスによって支えられているにもかかわらず、私たちはそれを渇望すらする不思議な生き物ものなのです。

もしかするとそれは、私たち人間が、自分の身の回りの現実である外側の世界だけでなく、内的な世界の存在をどこか信じて疑わず、それに生きることもまた必須であることを本能的に「わかっている」からなのかもしれません。心的な世界は限りなく広く、私たち一人ひとりが独自の宇宙を持っている。それは他者からは伺い知れないことはもちろん、自分ですら自分の本当の世界について全てを知っているわけではない。そうした内の世界と外の世界、自分と周囲との間の架け橋あるいは媒介として、知的で情緒的な相互作用を創生する役割を芸術や文化が担っているとするなら、実は私たち一人ひとりは、同じ人類という種でありながら、実はそれぞれがまったくの別種ほどの個体差を有している存在ではないのかと感じるのです。



ところで、冒頭で引用した國村隼さんのコメントは、そのままカウンセリングに訪れる人の心境といえるかもしれません。人は今起きている葛藤や苦痛の中で生きるよりも、未来に明るい希望を抱き、過去の温かな記憶を生きる糧としたいと願っている。だれもがストレスのない人生に憧れる。だから、今の厳しい状況をなんとかしたい思いカウンセリングにやってくる、のですから。映画や芸術より一歩踏み込んで、それぞれ具体的に救われる方法を求め問題を解消したい、といったほうが正しいかもしれませんが、だからと言って、カウンセリングもまた芸術であるとは到底言うことはできません。けれども、両者に共通あるいは類似することはいくつかあるようにも感じます。

カウンセリングでは、客観的事象だけでなく、相談者の心の働きや内面世界に意識を向け、そこで起きていることを探りながら、現実社会との調和を図るための様々な働きかけを相談者に対して行っていきます。物事の客観的な理解や科学的なデータや数値では把握し得ない心の世界や、葛藤や苦悩の奥深くを相談者ごとに個別具体的な形で表現(対話・コミュニケーション)していくという点では、両者の類似性はわかりやすいと言えるかもしれません。

もう一つは、これも先に述べましたが、芸術同様カウンセリングもまた、見たままの事実や対象とは異なるフィクション、錯覚に目を向けているということです。カウンセリングでは、それは相談者の主観的判断や決定、評価であり、バランスを欠いた思い込みであったり、物事のとらえ方や言動の偏り、極端な執着などと言い換えられるかもしれません。しかし、本人にとってはそれはとてもリアルな実感です。安易にそれは間違っている、思い過ごしだ、客観的事実とは異なるなどと決めつけてしまうのは正しい接し方とは言えない、というところに周囲が気づいていくこともまた大切です。不安や悩みを抱えている人にとっては、自分の思いや感情の状態はとても自然で自明であり、それは疑問を差し挟む余地のない実体・真実として映っているので、そうなってしまうには実は無理からぬ理由があり思いもよらない心理的因果関係が絡んでいる可能性に、ひとり気づくことはとても難しいことなのです。「私は私について一番よく知っている」「これが私の人間性なのだ」という実感が、一種の錯覚かもしれないというわけです。そこに分け入って、複雑に絡み合った問題の糸を丁寧にほぐしていくお手伝いをするのがカウンセリングです。

 もちろんネガティブに働く錯覚やバイアスばかりではありません。根拠に薄かったとしても、健全な楽観性や自信やポジティブな思考、それらに基づいて起こす行動は、時として個人や社会にとっていい結果をもたらす活力ともなり得るからです。そこもまた芸術との共通点といえるかもしれません。



 私たち一人ひとりの人生そのものが芸術(作品)である、とはよく言われることです。それがたとえどのようなものであったとしても、人生という唯一無二の物語を完成させる過程をたどることそのものが人生の意味であり目的であり、そのために私たちは生きているのだ、という確信は、人生において直面するさまざまな困難や悩みにたとえどれほどの時間やエネルギーを費やし、精神的辛苦を味わおうとも、そのことが決して無駄でも失敗でも挫折でもないことを教えてくれます。カウンセリングを通じてそれが決して安易な気休めの言葉ではないことを体験するとき、ほんのつかの間、私は素直に幸せを感じます。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

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by yellow-red-blue | 2018-10-10 20:19 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、カウンセラーとして、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。ブログのどこかに、読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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