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生きるは芸術 ~ 寒露の頃’18


仕事場の窓の外にある手すりに最近トンボが止まっているのを、ふとよく目にするようになりました。街中でもあちこちさまよう姿を時折見かけます。近くの通り沿いに立ち並ぶけやきの木のいくつかの葉がほんのりと色づき始めたのを眺めながら、こうして東京にも秋の気配が徐々に深まりつつあることに気づかされます。街中ではすでにハロウィンの気配が濃厚な一方、日本各地では稲刈りも終わり、秋の実りも収穫の時期を迎え、本格的な紅葉の便りが各地から聞かれ始めるそんなこの頃はまた、今年も残すところいくらも残されていないことにふと少し寂しく気づかされる季節でもあります。



先日、俳優の國村隼さんが、ある国際映画祭の審査員を務めた折に次のような発言をしたと、インターネット上のニュースが伝えていました。


「人々には今起きている葛藤や苦痛の中で生きるよりも、明るい未来の希望や温かい過去の記憶が必要だ。だから、なぜ今このように厳しい状況になっているのかが知りたいから、多くの映画が作られているのではないか」

 

 このシンプルなコメントは、映画に限らずすべての芸術や創作表現活動の根底に共通する本質的な問い、なぜ人間にとって芸術や文化が必要不可欠な営みなのか、に対するひとつの答え(あくまで一面についてですが)として、とてもしっくりくるように私には思えました。なぜなら、私たちにはそれらが必要であり、社会においても人間が生きるにおいても不可欠のものであると感じてはいながら、それはいったいどうしてなのかということについては、あまりよくわからずにきたからです。

考えてみれば、私たち人間が、身のまわりに起きている物事や存在する対象について、現実的、即物的な意味以上の何かを感じとる必要がないとしたら、そうした芸術や文化は必要ないでしょう。そんな面倒なことは考えずに、目に映る世界をただありのままのものとして捉え、実際起きたり見えている事物や関係、客観的な数字やデータだけに目を向け生きていくだけでいいではないか、その方が世の中はずっとうまく流れるかもしれず、少なくとも物質的には恵まれた世界を作ることができるであろう、という考えもある意味悪くはありません。

けれども、なぜか私たちは、文学を単に「インク」+「文字」+「紙」とは考えないし、絵画とはキャンバスに塗りたくられた絵具の複雑なパターンとは考えられない。さまざまな楽器の発する音の重なりに、わざわざ「音楽」という感動と精神的高揚までも植え付けようとする。私たちは、そこに客観や事実以上の捉えがたい何かしら深い意味やメッセージを込めたり読み取る作業過程を通じて、私たちの人間性や社会、文化がより豊かで洗練されたものに鍛えあげられていくと信じているのです。つまり、芸術や文化のような創作表現活動の本質が、現実や事実とは次元の異なる、いってみればさまざまなフィクションや錯覚、バイアスによって支えられているにもかかわらず、私たちはそれを渇望すらする不思議な生き物ものなのです。

もしかするとそれは、私たち人間が、自分の身の回りの現実である外側の世界だけでなく、内的な世界の存在をどこか信じて疑わず、それに生きることもまた必須であることを本能的に「わかっている」からなのかもしれません。心的な世界は限りなく広く、私たち一人ひとりが独自の宇宙を持っている。それは他者からは伺い知れないことはもちろん、自分ですら自分の本当の世界について全てを知っているわけではない。そうした内の世界と外の世界、自分と周囲との間の架け橋あるいは媒介として、知的で情緒的な相互作用を創生する役割を芸術もまた担っているとするなら、私たち一人ひとりは、同じ人類という種でありながら、実はそれぞれがまったくの別種ほどの個体差を有しているに違いない、とも感じるのです。



ところで、冒頭で引用した國村隼さんのコメントは、そのままカウンセリングに訪れる人の心境といえるかもしれません。人は今起きている葛藤や苦痛の中で生きるよりも、未来に明るい希望を抱き、過去の温かな記憶を生きる糧としたいと願っている。だれもがストレスのない人生に憧れる。だから、今の厳しい状況をなんとかしたい思いカウンセリングにやってくる、のですから。映画や芸術より一歩踏み込んで、それぞれ具体的に救われる方法を求め問題を解消したい、といったほうが正しいかもしれませんが、だからと言って、カウンセリングもまた芸術であるとは到底言うことはできません。けれども、両者に共通あるいは類似することはいくつかあるようにも感じます。

まずカウンセリングでは、客観的事象だけでなく、相談者の心の働きや内面世界に意識を向け、そこで起きていることを探りながら、現実社会との調和を図るための様々な働きかけを相談者に対して行っていきます。物事の客観的な理解や科学的なデータや数値では把握し得ない心の世界や、葛藤や苦悩の本質を相談者ごとに個別具体的な形で表現(対話・コミュニケーション)していくという点では、両者の類似性はわかりやすいと言えるかもしれません。

もう一つは、これも先に述べましたが、芸術同様カウンセリングもまた、見たままの事実や対象とは異なるフィクション、錯覚に目を向けているということです。カウンセリングでは、それは相談者の主観的判断や決定、評価であり、バランスを欠いた思い込みであったり、物事のとらえ方や言動の偏り、極端な執着などと言い換えられるかもしれません。しかし、本人にとってはそれはとてもリアルな実感です。安易にそれは間違っている、思い過ごしだ、客観的評価とは異なるなどと決めつけてしまうのもまた正しい接し方ではない、というところに気づいていくこともまた大切です。不安や悩みを抱えている人にとっては、自分の思いや感情の状態はとても自然で自明であり、それは疑問を差し挟む余地のない実体・真実として映るがために、そのような状態にあることには無理からぬ理由があり、思いもよらない心理的因果関係が絡んでいる可能性にひとりではなかなか気づかないこともあります。「私のことは私が一番よくわかっている」「これが私の人間としての本性なのだ」という実感が、一種の錯覚かもしれないというわけです。そこに分け入って、複雑に絡み合った問題の糸を丁寧にほぐしていくお手伝いをするのがカウンセリングです。

 もちろんネガティブに働く錯覚やバイアスばかりではありません。根拠に薄かったとしても、健全な楽観性やポジティブな思考、自信の錯覚やそれに基づいて起こす行動は、時として個人や社会にとっていい結果をもたらす活力ともなり得るからです。そこもまた芸術との共通点といえるかもしれません。



 私たち一人ひとりの人生そのものが芸術(作品)である、とはよく言われることです。それがたとえどのようなものであったとしても、人生という唯一無二の物語を完成させる過程をたどることそのものが人生の意味であり目的であり、そのために私たちは生きているのだ、という確信は、人生においてさまざまな困難や悩みに直面する経験が、たとえそれにどれほどの時間とエネルギーを費やし、精神的辛苦を味わおうとも、決して無駄でも失敗でも挫折でもないことを教えてくれます。カウンセリングを通じてそれが決して安易な気休めの言葉ではないことを体験するとき、私はほんのつかの間、素直に幸せを感じます。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂

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by yellow-red-blue | 2018-10-10 20:19 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、カウンセラーとして、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。ブログのどこかに、読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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