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別れの予感 ~ 小雪の頃’18


 そういえば東京ではいまだ木枯らし一号が観測されていないようです。本格的な冬への扉が開く小雪の頃といえ、冬の始まり数歩手前で足踏み状態といったような陽気でしょうか。街中はまだ晩秋の趣が強く、紅葉がますます色濃く深みを増していくそんな日々が続いています。イチョウやポプラ、ケヤキにモミジといった公園や通りの並木におなじみの木々の紅葉は、私たちの目をとても楽しませてくれますが、個人的に一番紅葉が美しいと感じる木はソメイヨシノです。桜のクライマックスといえばもちろん春先なのでちょっと意外に思われるかもしれませんが、ソメイヨシノほど一年を通じて四季折々の美しさと多彩な色と姿で人を魅了する木はほかにないのでは、と思っています。

 場所や陽当たりの強さ角度によって紅葉と落葉の進み具合もさまざま、晩秋のやや力の落ちた陽光に照らされ五色鮮やかに輝くソメイヨシノの紅葉はとても美しいです。とくに、もうほとんど葉が抜け落ち裸同然となり、美しい桜の花には似つかないほど黒々武骨な木の幹や枝に、ほんのわずか数枚だけが寒風にさらされながら懸命に落ちまいと引っかかっている様子に、まもなく訪れる長く厳しい冬と、そこを経てやがて初々しいピンク色の花咲き乱れる待望の早春の到来へと想像を掻き立てられ、その自然の大胆なまでの変貌と神秘性にしばし心奪われてしまいます。



 

 私が物心ついて最初に体験あるいは実感した「別れ」は、幼稚園の卒園式の時でしょうか。年少組の時には年長組のお兄さんお姉さんが巣立っていくのを見ていましたが、卒園といっても近くの小学校(というところ)へ行くことは知っていましたし、住んでいるところもみな変わらず近所で一緒でしたから、あまり別れという感覚はなかったのが当然といえば当然かもしれません。けれども、自分がいざ幼稚園での生活に別れを告げようとする卒園式で、担任の先生がひとり目をはらしてひそかに涙している姿を見て、これでもう先生や友達の何人かとは会えないかもしれない、ああこれがお別れなのだとおぼろげに理解をしたのでした。

 人は人生の節目節目でさまざまな「別れ」を経験します。それはあらかじめ予期されたものもあれば唐突にやってくるものもあります。状況や対象によって、離別、訣別、喪失、分離そして死別など、様々な表現がなされるでしょう。人との別れや死、今まで有していた役割や身分、資格や境遇との別れ、所属したり帰属意識を持ってきた社会組織や場所、住み家との別れ、さまざまな物との別れ、さらには病気や事故、加齢など何らかの原因で自分の身体機能の一部や健康が損なわれることなど、考えてみればこれらすべてが「別れ」です。自らの意思で決断する別れもあれば、必ずしも望みはしないが、結局それはいずれやってくるもの、やむを得ないもの、避けがたく向こうからやってくるもの、それが別れであるといえます。いずれにせよ、別れの繰り返しとそこからの回復なり前進が人生そのものといえるかもしれません。

 けれども私たちの人生には、別れを告げたい、別れなければ前へ進むことができないことが分かっていながら別れることができない、一刻も早くそれを消し去りたい、忘れたいのにどうしても自分から「別れがたく」自分の中深くにとどまり続けるものもあります。葛藤や不安、執着や恐れ、欲望や願望といった、私たち人の心の中に湧き上がるように存在する複雑で扱いの難しい心の動揺とでもいうべきものです。巧みにそれを「心の渦」と表現される専門家の方々もいます。どうにも自分では受け止めきれない感情や思い、直視しがたい出来事の記憶、悲しみや悔恨、罪悪感といった、意識するとしないとにかかわらず心に沸き立つそうした渦は、私たちと分かちがたく存在し心深くに潜み、私たちの思考や感情、行動に強い影響力を持ち続けます。消し去りたいのは自分のほんの一部であるにもかかわらず、あまりにも長い間自分の中に存在しているがために、あるいはあまりに受けた心の傷が深かったために、それはあたかも自分と不可分のものとして実感・意識され、自分がすなわちそれに過ぎないとの意識が捨てきれないこともあります。なぜだか心の渦に限ってはコントロールすることが難しく、否定しようとすればするほどその渦は心をかき乱し、それを否定することはまさしく自分の価値や存在そのものの否定となり、時に自分がいなくなればいい、消えてなくなりたい、決して周囲と交流することはできない、と人知れず苦悩するしかない日々を送ることすらあります。

 その別れを告げたいものとは何なのか、離れがたく分かちがたい思いとは何であるのか、容易には言葉にできない気持ちを汲み取り、表面上の現象ばかりに振り回されることなく、その奥底にある深いこころに残っている渦に気づくことをお手伝いし、別れへの道を徐々に模索しながら一緒に進む「おくりびと」の役割が私たちカウンセラーにあるのでしょう。


 

 カウンセリングルームには常に別れがあります。しかし、ここでの別れはとても喜ばしいことです。相談に訪れる依頼者が、新たな希望へ向かう準備が完了したことの証しとしての別れだからです。抱えている悩みや問題、症状が解消した、あるいは少なくとも改善し、将来への展望が見えてきたからこその別れであり、そんな時には笑顔と時として涙でカウンセリングの終結が宣言されます。でも、そこに何とはなしに一抹の寂しさもこみ上げてしまうのも事実です。それはいろいろなことがあったにせよ、自分が指導し幾時を共に過ごした子ども達が無事に学びを終え巣立っていくことを毎年見送る学校の先生の思いにも似た心情からかもしれません。確かにカウンセリング終了後しばらくたって、元気である旨連絡をいただいたとき、そこで初めて嬉しさがこみ上げるということのほうが多いように思います。

 もちろんそうしてしっかりと終結が確認されるカウンセリングばかりではありません。理想的な別れで終了することのほうが少ないかもしれません。最初のカウンセリング後、もうやってこないのが薄々わかる場合もあります。じっくり話し合い、相談者が自分の思いのたけを存分に聞いてもらったことで満足を得ている感触が伝わる場合には、たとえ何の予告もなく来なくなっても驚きはありません。また明確に不満や怒りを示され、カウンセリングが中断になってしまうケースも、カウンセラーとしての力が足りずに反省すべきところはあれど、相手のメッセージが明らかなので受け入れやすく切り替えやすいので、これもまたむしろ前向きの別れだと思っています。

 悩ましいのは、こうしたいわば明るいお別れとは異なる別れにしばしば立ち会わなければならないことです。順調にカウンセリングが進み、本人も少しずつ手ごたえを感じていた(とこちらは思っていた)のに、唐突にやってこなくなる人。明らかに症状や悩みはいまだ深いままなのに、二度と来なくなってしまう人。カウンセリング予約の電話を何度もしながら結局一度も姿を見せない人。相手の状態が気がかりで、何がいけなかったのか悶々と自らに問う日々が続くこともあります。こうした唐突な別れは、正直やはりしんどいものでこれもまた心の渦との別れの難しいところです。


 

 しばらく前のある休日、仕事場から少し離れたスーパーの中で、かつての相談者の一人の姿を偶然に見かけました。二人の子供と夫と仲睦まじそうに買い物をしていたその相談者は、数年前に唐突なお別れを告げた依頼者の一人でした。

 かつて彼女は、様々な事情から出産と子育てを機に始まった、日常でのちょっとしたいさかいごとや対立が絶えない夫婦関係と、自分の生来の神経質で完璧主義的な性格が今後子どもに及ぼす影響がとても心配で専門的な立場からの意見と性格を見直したいとカウンセリングに訪れていらしゃった若い母親でした

 厳格なしつけが支配的だった養育環境に育ち、すべての面において優等生的そうしたエリート指向的人生に努力を傾けることに慣れてきた反面、囲の評価や今の社会で支配的な価値観に敏感で、常に比較・競争意識を持って生き、周囲をその尺度で判断してきた自分がときにいやでたまらず、近しい人に対しかえって余計に不快感情や不信感をあらわにしてしまうことがとても不安だったのでした。社会的身分も高く優秀なキャリアウーマンの典型といった風情の彼女は、その自信と硬質な態度の下に、しかし涙で時折言葉が詰まるシーン見せるよう、自信なさげな不安定さが同居しており、そうした時の表情はむしろ自然、素直な印象に私の目には映りました。本来はどちらかといえば内気で、内的世界と向き合うことに長けたとても感情豊かな人柄だったにもかかわらず、そうした自分の感情や願望を素直に出すことを自分に許してこなかった、許されないと信じてきた、そんな生き方をしてきたことが話し合いの中からわかってきたのでした。そして、彼女は数回のカウンセリングの後、何の前触れも予告もなく姿を見せなくなったのでした。

 久しぶりに見かけた彼女の印象にさしたる変化はありませんでした。あれほど心配していた二人の小さな姉妹はとても明るく楽しそうで、ご主人とじゃれ合っている姿がほほえましい普通の家族でした。

 以前も垣間見えた少し神経質な彼女の目の表情を見て、一瞬不安がよぎりました。けれども、駆け出す二人の子供とそれに追いつこうとする夫から少し距離を置きながら、心なしか弾むようなステップでゆったりとついていくかつての相談者の後ろ姿に、どことない朗らかさと余裕を感じた私は、すぐに少しホッとしたのでした。


 

 この相談者は私とのカウンセリングに失望し別れを告げたのかもしれないし、少し勇気づけられたから別れたのかもしれません。別れは「それでも私は進む覚悟を決めた」ことの証しでもあるのでしょう。心に沸き立つ渦は今もって消えてないかもしれないが、それを抱えながら生きていくすべを何とか探し当てようと模索することもまた、私たちの人生そのものなのかもしれません。

 「心の渦」は、他の別れのように消えることはなく、どころかついに別れはやっては来ないものなのかもしれません。それもまた自分の一部として引き受けながら、人生を歩んでいくことに手を差し伸べるために、私ができることとはいったい何なのだろう、そして今まで自分は何ができてこなかったのだろう。

 普通の家族4人の姿を目で追いながら、私は自分に問いかけていました。

あなたの心に深く刻まれている「別れ」はどんなものでしょう?あなたにひっそりと寄り添う心の渦は?



最後までお読みいただいてありがとうございます。

メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂

サザエでございます

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by yellow-red-blue | 2018-11-22 21:57 | Trackback | Comments(0)

ふたりの老人 ~ 立冬の頃‘18



以前のブログ(『パワースポット(Ⅱ)』)でも触れた、個人的にお気に入りの散歩コース途中にある運河沿いのとあるベンチに久し振りに腰掛けしばしくつろいでいた先日のことです。やはりお散歩の途中とおぼしきひとりのご老人が、ゆっくりとこちらのベンチに向かってくるのが目に入りました。年の頃85は下らないように見えた細身の方で、ステッキをつきながら足元が少々おぼつかない様子でゆっくり一歩一歩を踏みしめ、ここよろしいですか、とご丁寧に会釈をしてこれまたゆっくりとベンチへ腰を降ろしたのでした。そろそろ立冬を迎えようかという、おだやかながらやや冷たい秋風の吹け抜ける休日の運河の景色を眺めながら、しばしの会話が始まりました。

 近くの高層マンションに奥様とお二人で暮らしており、中学を卒業すると同時に遠い田舎から上京し、すぐに地下鉄マンとして就職し長年働き、定年後を含め、かれこれ60年以上もずっとここ芝浦に暮らしてきたとのことでした。

「いい時代でしたよ。まだ右も左もわからない田舎者に、仕事も住まいもお給料も何から何まで世話してもらったようなものでね。一人ぼっちだった私でしたが、いい先輩や同僚にも恵まれて皆が家族のようでしたから。仕事は大変でしたが皆がそんな時代でしたからね。幸せでしたよ。」ゆっくりと丁寧な言葉遣い一語一語に過去の日常への郷愁を織り込むかのような話振りは、自分なりに想像する老人の過去へと私を心地よく引き込んでいきます。

最近の大規模再開発を機に住み慣れた自宅から高層集合住宅への移住を余儀なくされたとのこと。では随分とこの辺りも変わってしまったのでちょっとお寂しいのでしょうねと話しを向けると、

「いやいや、そんなことないですよ。あまりに規模が大きいのでちょっと戸惑うこともありますが、とても立派だし快適なので感謝してますよ。みんなよくしてくれますし。1階なのでこの辺りは土地が低いですから、いざ大地震が来たときが心配なことぐらいですか。まぁこの年だからいざという時さっとにげるわけにもいかないでしょうからあきらめてますけど」ととてもあくまで和やかです。

そばの運河に沿った遊歩道を、小さな姉弟がペットの犬を散歩に連れて通りかかると、顔見知りなのかお互いに挨拶を交わしていました。

「知り合いでもないのに、ここに腰かけているだけで、ああやって私のような老人にも声かけてくれるしね。やっぱり恵まれているんでしょうね、私は。」

ふと気づけば、季節にピッタリの柿渋色の暖かそうなニットセーターに、今どき珍しい赤が基調のタータンチェック柄のハンチング帽にボーダー柄マフラーがとてもよく似合っていらっしゃいました。奥様の見たてかあるいはお子さんやらお孫さんからのプレゼントなのでしょう。驕奢は感じさせない庶民性がありつつ、どことない品の良さを感じさせる方でした。会話の中の言葉遣いや初対面の私へのそれとない気遣いからその人柄と言葉通りの幸せな人生が伝わってきたのでした。

「さて、寒く成りましたらそろそろ引き上げますか。」いま、家には家内の友人がいましてね。二人集まるとこれが結構なおしゃべりになるので避難してきたようなもので。でも散歩が唯一の楽しみのようなものですからね。ここはいいところですよ。ゆっくりゆっくりと立ち上がって軽い会釈とともに遊歩道をまた来た方向へとゆっくりと戻っていきました。そんな後ろ姿に私はつい見入ってしまったのでした。



 「ああ、失礼、ここいいですか?」

突然そう言われてハッと振り向くと、やはり一人のご老人が隣のベンチに腰掛けようとしたところでした。ビックリしたような私の顔をしばしねめつけながら、どっかと腰をおろし、座るやいなや懐からたばこをやおら取り出して一服。心地よさそうに煙をはき出してから、「ああ、煙草構わないかな?」とひと言。

 先ほどのご老人とほぼ同じ世代に見えましたが、こちらは対照的にやや恰幅のいいガッチリとした体格の赤ら顔の方で、足元はやや弱っているようでしたが、杖もつかず堂々としている雰囲気。一見して値の張る衣服に身を包んだその方の、あきらかな若輩者の私への言葉遣いのトーンはざっくばらんなものでした。企業でそれなりの地位まで上り詰めたかご自身で会社を経営なさっていた方、あるいは職人の親方さんのようでもあり、人を率いたり指示することに慣れてきた人のような、引退してなお壮健なお人柄が漂ってきました。

辺り一帯があきらかに喫煙NGの環境のようでしたがが、ええ、どうぞと気にしない風を装うと、それをも察知してか、「最近は落ち着いてたばこを吸う場所もないんだからね」と美味しそうに煙を出しながらもかなりの不満顔をしていらっしゃったのでした。

 そうですねと、今どきの喫煙者の肩身の狭さに同情するコメントをすると、

「自宅でもそうだからね。ベランダの喫煙はもちろんだが、自分の家の中で吸ってもそれが外にちょっと漏れると文句言ってくる人もいるしね。」聞けば住んでいるところは、さきほどのご老人と同じくすぐ近くの高層マンションのひとつ高層階。立派なところにお住まいですね。

「いや、まぁまぁだよ。でも見た目よりいろいろと不便だね。風も強いし。近所の騒音音やペットなんか結構気になるね。もうちょっとご近所迷惑を考えてもらいたいんだが、今どきの人はあんまりそういうことには...」と最後はぶつぶつ声に。

最初のご老人が自分の過去やよき思い出の話を柔らかく語っているのとは対照的に、この方は過去や自分のことはほとんど触れることなく、どちらかといえば変わってしまった今の世の中に何か納得がいっていないかのようなトーンに終始していたのでした。私のプライベートな話にもあまり興味がないご様子でした。

 すぐ前の運河沿いの遊歩道をジョギングする人が行き交います。

「休日なのにああやってせかせか走って。みんなマラソンでも走るのかね。」そういう人も結構いらっしゃるみたいですよ。最近は健康志向の方も多いですしね。

「そんなことわざわざやらなくったって、わたしなんか何もやってこなかったが、この通り身体は丈夫だし元気だけどね。ただ豊かになって食い物や生活がぜいたくになったせいなんじゃないかね。」とちょっと手厳しいですが、たしかに本当にお元気そうです。

犬を何匹か連れスマホに見入っている若い今どきのご夫婦が通り過ぎるのを眺めていたかの老人は、「うちの近所にもいるけどさ。最近多いね。何匹も飼っていたり、文字通り猫かわいがりというんかさ。ペット飼わずに子ども作れと言いたくもなるよ。」「なんというか、もうちょっと今の人が世の中や社会のこと考えればいいんだが...」


そんなご自分のお考えに同意を求めるかのような苦笑顔を向けられ、当たり障りのない同意の言葉を向けると、そんな私もまた自分とは違う側の世代であることに気が付いたかのように、「いや、そんなこと言うとまた文字通り煙たがられるかな」とたばこをまた深々と一服し、しばし無言の後、「じゃ失敬」といきなり席を立ち、また来た遊歩道を足早に戻っていったのでした。

ゆっくりくつろぐつもりで来たのに、私が相手ではお役不足、折角の散歩が台無しにされたかのようなせっかちな歩みに勝手ながら私には思えてしまったのでした。ただ、ぶっきらぼうながら悪い感じはしなかったのは、その方がある意味表裏のない率直な方であったように感じられたからかもしれません。

ほぼ同時代、同じ場所で生きたであろうお二人が、同じ風景を目の前にしてこんなにも対照的な物事のとらえ方、お話しをなさるのかと思うと、今さらながらそして当たり前のことながら、私たちはそれぞれが本当に「ただ違う」のだ、と改めて思い知らされます。



その後もしばし私はそのままベンチに腰掛けながら、何だか一人その場に取り残されたかのような、ちょっと不思議な感覚を覚えてしまいました。しいて言えば、ポツンとあるベンチが舞台設定の演劇か何かに出ているかのようなそんな感覚です。

出演者:老人A、老人B、そして中年男C、以上。

さしずめ、舞台に最後一人残された私は、なにがしかの気の利いたセリフでこの舞台を締めなければならないか、あるいはラスト幕が降ろされる間際に天上から聞こえてくるささやきめいたメッセージはどんなものか、などと勝手な思いが頭をよぎります。


『おまえもいずれ老人だ。それで一体お前はどちらの老人になるのだ?』

『いやいや、結局どちらもお前なのだ。そうではないか?』

『いろいろと勝手なことを妄想しているようだが、当の老人たちには、今のお前はいったいどんな人間に映ったのだろうな?』



 穏やかで謙虚、自分が周囲の助けや犠牲のもとで生かされてきたことに素直に感謝できる人もいれば、頑固一徹に一人道を切り開いて必死に生きてきたと信じている人もいる。現実に妙に逆らったり疑問を感じたりせず、受け入れ流れに任せる人もいれば、現実からの距離が取れて、世俗的な価値観を相対視することができたり、周囲をありのままをそっくりそのまま受け入れるのではなく、自らの価値基準と正義感覚を保ち続け、納得のいかないことには異議申し立てもいとわない人もいる。そして、結局そのどちらがより悪くてより好ましいというものではないのでしょう。そんなふうに考える私もまた歳を重ね衰えゆく年代にさしかかったのだと気づかされます。


一個人をどこまでも他に例を見ないひとりとして肯定し、理解し、支え続けること、そして周囲からはどう見えようとも、あなたの、わたしの事情や気持ちそれはそれで十分にくみ取る価値のあるものであって聴くに値するものである、との姿勢をメッセージとして送り続けることがなにより大切なのだということを、今の仕事を通じて少しずつ学んでいるように思います。そしておそらくそれは、私たち一人ひとりの人生においてもまた同じなのではないか。とにもかくにも元気そうなお二人を見てなぜかそんなことをふと考えさせられたのでした。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂

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by yellow-red-blue | 2018-11-08 16:02 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、カウンセラーとして、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。ブログのどこかに、読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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