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― 子どもの時 カエルを飼ってた

― 何言っているんだ?レオ

― これだけ話させてくれ

  フロッギーって呼んでた

  一番の親友だったんだ 

  友達が少なくて...

  本当はひとりもいなかった

  それで

  そのカエルにいつもキスしてた

  もしかしたら

  いつかお姫様に変身するんじゃないかって...

  母親に

  俺 母親に捨てられてさ

  父親は育児放棄

  だからフロッギーだけが友達だった

  大好きで いつも一緒

  それがある日 自転車のカゴから飛び出して

  後輪で ひいちまった

  死んだよ

  マジで死ぬほど悲しかった

  唯一 愛した親友だった

  で 出会った

  お前とロジャーだ

  2人とも本当によくしてくれた

― そうでもない からかったりいじめてばかりだろ

― いや いいんだ 俺は気にしない

  君らは家族だ

  友達だ

  フロッギーとは違うが 友達だ

  まあ...こんな話でも役に立つかな

じゃ俺 もう行くよ

― (レオが去り、亡き妻の墓標を見つめながら)変な天使を送ってくれたもんだ 

   話は通じた 分かったよ 君はいつもここにいてくれ ありがとう また来るよ

                        (ある映画のワンシーンから)



 カウンセリングに訪れる人には、人間(対人)関係や社会的コミュニケーションに問題を抱える方が多いようです。家族内であれ、社会生活や学生生活上の関係であれ、何らかの人間関係につまずき、それがきっかけとなって精神的な苦痛を訴え病気まで発症するケースもあれば、逆にもともと抱えてきた精神上の問題なりパーソナリティの課題が、人間関係の悪化あるいは他者との親密な関係の欠如という形で現れ、日常生活に支障をきたすというケースもあります。

 ところでしばらく前、あるメンタルヘルス関連のセミナーで講師が、最近に見られる対人関係の傾向、特に若い世代の友達に関する特徴として、①(本人の主張する)友人の数が多い。100人程度は当たり前、中には数百~1000人いるとサラリと答える人も珍しくない、②「親友」という言葉を多用したがる、③それにもかかわらず、その関係性は淡泊で継続性がなく、短期間での友人関係の増減が激しい。ほんのささいなきっかけでよく事情を確かめないまま友達関係を絶ってしまう、というようなことを挙げておられました。

 

 あくまで仕事上の経験の範囲での話ですが、私も同じような感想を持っています。若年世代からの相談の場合は、友達や職場の人間関係にまつわる悩みが多いです。広く若い世代一般がそうであるとは言えませんが、ひとつの特徴といっていいかもしれません。

 インターネット、携帯を介して構築される人間関係が主役となり、生身の付き合いが相対的に貧弱なものとなりつつある社会的背景もあって、人間関係の在り方は昔とはずいぶんと様変わりしているということもあるのでしょう。友達をどう認識するかはある意味各人の自由ともいえるわけですから、とやかく言うのもおかしいのかもしれません。けれども、「親友だと思っていたのに裏で陰口言われていた」「悩みを親しい友人に打ち明けたら、それを勝手に広められた。即友達リストから削除した」「文句を言ったら逆ギレされ悪口を流された」などの話を実際に聴くと、不確かな情報や誹謗中傷、ひそひそ話が無制限に交錯するインターネット空間で人との距離感を図ろうと、表や裏での探り合いに右往左往するような人間関係がむしろ当たり前のようになってしまった社会において、お互いひとまず正面から向き合わないで済むような交流を優先し、ある意味押し付け的な承認欲求ばかりが肥大化してしまっているとすれば、深刻な問題かもしれません。

 それは、自分なりの線引きで判断した相手への期待の押し付けの連続や積み重ねを友達(対人)関係とごちゃ混ぜにしているように思えなくもありません。「~してくれるはずだ」「(相手が)~すべきだ。~と考えるのが普通」などという思いが互いのやりとりの基底に強い場合、それは言い換えれば、「(相手がすべきこと)は(本人ではなく)自分だけが知っている」と主張することと大差ないということに気づけないでいるのかもしれません。 

 

 友達がなかなかできない、ごく表面上の人間関係ばかりでそれ以上発展させることができないでいるという悩みを抱える人もいれば、上述のように人間関係は多彩に見えるが、その出入りは激しく、友人だ親友だといいながら関係が継続せずに、その関係が壊れてしまう(あるいは壊してしまう)ことに首をかしげる人もいます。前者は孤独を感じる人、後者は拒絶されることを恐れるがゆえにのめり込むような人と言えるでしょうか。一見するとこの両者の悩みは正反対にも見えますが、カウンセリングを通じて感じるのは、実は根っこは同じであるということです。どちらも、他人よりも何よりもまず自分を大切な存在に思えていない、まずもって自分への尊敬を欠いているということです。他人がどうこうである以前に、自分がまず自分の「いいお友達」になろうとしていないのです。


 

 これは、自尊心(自尊感情)あるいは自己肯定感(覚)の問題といえそうです。自尊心とは、自分自身を何の条件もつけることなしに、価値ある存在であるとただ素朴に信じている心の状態です。自分の能力や行動、性格などについて自分で下す評価(自己評価)は様々あっていいのですが、それでもなお自分の価値や存在は変わらないと受け入れ肯定できる程度のことを意味します。ここで大切なことは、それは周囲との比較により生じる優越感や劣等感、差異の意識とは違うということです。また、何らかの課題や条件をクリア・達成することによって外から与えられる評価(成功か失敗か、優れているか劣っているかなど)によって決まるような自信感情とも違うということです。自分にはいいところも悪いところもある、他者に比べると劣っていることもあるだろう、けれども、そんな自分を「でもまぁ気に入っている」「これでもいい」とそれなりに感じることができている程度が自尊心の高さを示すのであって、自分への尊重や価値の存在を素直に認めることができることにあります。

 自尊心は、ある意味人間にとって水や空気と同じようなもので、生きるに最低限必要とされるものと言っていいのですが、普段自分達にそんなものが備わっているか欠けているか、その程度が低いか高いかななどを意識して生きてはいません。自分の人格の一部として、生まれつきの資質なり気質として備わっていたり、成長過程での様々な環境要因の中で獲得・学習するものでもあり、人それぞれです。ただ何らかの要因から健全なレベル(多すぎても少なすぎても問題があるので)の自尊心を育むことがかなわず成長してきた場合、生きるに困難な状況に様々直面することとなります。常にどことなく不安やあせり、周囲との比較意識の感覚が心の基調にある状態で生きるのはなかなか大変なことです。それに費やされるエネルギーは大変なものであり、最初から生きるハンデをしょい込んでいるようなものです。そのような悩みをずっと抱えてきたことを知らずに、「なぜ自分だけこうもうまくいかないのか」とひそかに感じながら生きている人が、実はかなり多いのではないか、と感じています。

 こんな2つの質問を自分にしてみてください。質問1:「あなたは、あなた自身をノーベル賞を受賞するような学者や金メダルを獲得したアスリート、成功している企業経営者達と同じ、ひとりの価値ある存在の人間だと思えますか。」質問2:「あなたにとって、両親や配偶者(または親しい友人)を、彼ら(質問1で挙げたような著名人)同様価値あるひとりの人間だと思っていますか。」もし、両方イエスと答える(多少は逡巡するにしても)ことができるなら、健全な自尊心を持っているといえるでしょう。しかしもし、前者がノーであるなら、そしてとりわけ逆に後者がイエスだと考えているなら、かなり自尊心に問題があるといえるかもしれません(すべての人にあてはまるわけではありません)。自分にとって大切な存在である家族はたとえ普通一般の庶民であるとしても、価値ある人間であると考えられるのにもかかわらず、自分自身にだけは厳しい評価を下してしまうからです。自分が最も大切に思い優しく扱わなければなならないのは、まず「自分」という人間である、という素朴で自然な認識が抜け落ちてしまっているのです。


 

 この自尊心向上に取り組むのはなかなか難しい問題です。健全な自尊心がないまま生きてきた本人にとっては、何の根拠もないのにいきなり「あなた自信を持ちなさいよ」といわれるようなものだからです。教わってすぐ得心するものではないので時間もかかります。過去の生活史上の心理的葛藤や傷つき体験などを探りながら、同時に現実的な対人関係の在り方に具体的に検討を加えていくような丁寧な取り組みも必要です。

 「人はみな違うのだ」という当たり前のことを心底信じていくことが第一歩になるでしょうか。人はみな違う、だからこそ、その目標も得意不得意も願望も適性も人生歩みのペースやプロセスもみんなそれぞれでいい。そうしたことを無視して皆が同じ山の頂を目指そうとするから苦しくなるのです。誰もがそれぞれに目指すべき山があってよく、それを探し求め、頂きをめざすことについては努力や苦労を惜しまないことこそが、私たちの人生です。

 そして自分を大切に思い、自分と対話を重ね何が自分に必要なのか、自分が本当に望むものは何なのか、何が自分にはできないのか無理なのか、ということに素直に向き合ってみることが次のステップです。そのうえで道を定めて迷わず進んでいく。その進む道の途中でふと出会うのが「友達」なのでしょう。数でもなければ出会う時期でもありません。望まない道で出会った人は、たとえいい人であったとしても、苦しい本人の目には友達とは映ってこなかったかもしれません。親友や尊敬できる人生の師と呼べる人とは、人生の終わり近くになってようやく出会える人だっているでしょう。遠い昔のあの人が親友だったと、後年気づく人だっているはずです。今、友人がいなくても、好きな人に出会えていなくても、それは今はまだ出会いの時ではない、ととらえなおしてみてください。それよりも今は自分を大切に見つめなおす時期、やるべきことが他にある時期なのかもしれません。単なる気休めと思わず、こんな風により多くの可能性に対して、心が平等に、等距離に開かれているかどうかも自尊心を高めるには問われていきます。


 難しいでしょうか?でも大丈夫、少しずつで構わないのです。それに冒頭の映画のレオのような「天使」は、意外や誰の近くにもいるものです。今は見えてないだけかもしれません。それにはまず、自分をしっかり自分の「トモダチ」にしてあげてください。

 素敵なクリスマスと新年がやってきますように。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂

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by yellow-red-blue | 2018-12-22 18:00 | Trackback | Comments(0)

 初夏を思わせるほどの暑苦しさで始まった今年の師走は、大雪の頃を境にようやく本格的な寒波が全国を覆い始めたようで、正常に戻ったことになぜかホッとするやら、でもやっぱりこの寒暖の差には辟易するやら、なんだか妙な気分の年の瀬の始まりとなりました。

 この季節になると、青森に住む友人から地元の農家から直接仕入れたおいしいリンゴがいつも山のように届きます。青森でも今週ようやく雪が降り始めたと思ったら、この週末はもうドカ雪の予報だそうです。

 毎年当たり前のように受け取ってきたリンゴですが、段ボールにぎっしり詰め込まれた赤い実を眺めながらふと、厳しい寒さと風雪があたりを覆いつくす長い冬、周囲の純白の銀世界とは鮮やかに対照的なリンゴの赤い色は、青森の人々にとってはずっと特別な色なのかもしれない、色や形は同じといえども、都心に暮らす私のような人間が、人工照明で照らされたスーパーの食品売り場で出会うリンゴとは随分と違う存在に映ってきたのかもしれない、そう思ったのです。

 その友人の二人の子供は今年そろって受験を控えていて、もういろいろと大変なのだとか。青森のリンゴの赤色は、そこに生きる人それぞれの人生さまざまな出来事や苦労の思い出と記憶とが塗り重ね合わさった赤なのかもしれません。



 私がたびたび自宅を訪問するクライエントにWさんがいらっしゃいます。一人暮らしが長い70代後半のWさんは、足がご不自由なため、私の方から定期的に自宅に出向いているのでした。そこでいろいろなお話をするのですが、必ず出てくる話題が映画です。かつては娯楽の中心だった映画にWさんは小さなころから慣れ親しみ、それこそ数えきれないほどの作品を鑑賞してきたのだそうです。それは今でも変わらず、テレビの横の棚には通販で購入したと思しき、映画のDVD名画全集がずらり。それもそのはず、かつて終戦後間もない一時期、Wさんのお父さんは、ある地方都市の繁華街で当時としては珍しい洋画専門上映館を経営なさっていたのだそうです。戦時中長らく禁止されていた敵国映画たる欧米映画が、敗戦国日本にどっと押し寄せてきた時代でした。戦争に敗れ一面焼け野原から裸一貫の出直しを始めて間もないこの国で、映画館の薄暗い場内のスクリーンに映し出される西洋映画の織りなす銀幕の世界は、文字通り別世界のことのようにWさんの脳裏に深く焼き付いてきたのでしょう。

 今でも世界中でたくさんの映画が作られており、劇場だけでなく気軽にDVDやインターネットを通じて数多くの古い名画も楽しめる時代になりました。思い出の名画ばかりでなく、新しい映画作品もよく見るというWさんですが、Wさんに言わせれば、かつて今ほど娯楽に恵まれず社会環境も貧弱で、まだまだ多くの日本人が貧しかった時代に見た映画の世界は、単なる余暇の楽しみや気晴らしを超え、人生そのもの、人生における先生であり友人であり恋人でもあったといいます。

 たとえ今そうした映画を後年の世代が安楽に観ることができるようになったとしても、そこには冒頭述べたような、青森の人たちにとってのリンゴと私が経験してきた都会のリンゴほどの違いがあるのかもしれません。



 少し前の話になりますが、イギリスの国営放送BBCが、世界の映画専門家による投票をもとに選出された「映画史上最高の外国語映画100」と「映画史上最高のアメリカ映画100」をインターネット上で公開していました。両ベスト100中、上位10傑を以下に挙げてみます。


【映画史上最高の外国語映画100】(タイトル、製作年、監督名、国) http://www.bbc.com/culture/story/20181029-the-100-greatest-foreign-language-films

 第1位 七人の侍(1954)黒澤 明(日本)

 第2位 自転車泥棒(1948)ヴィットリオ・デシーカ(伊)

 第3位 東京物語(1953)小津安二郎(日本)

 第4位 羅生門(1953)黒澤 明(日本)

 第5位 ゲームの規則(1939)ジャン・ルノワール(仏)

 第6位 仮面(1966)イングマール・ベルイマン(スウェーデン)

 第7位 8 1/2 (1963)フェデリコ・フェリーニ(伊)

 第8位 大人は判ってくれない(1959)フランソワ・トリュフォー(仏)

 第9位 花様年華(2000)ウォン・カーワァイ(香港)

 第10位 甘い生活(1960)フェデリコ・フェリーニ(伊)


【映画史上最高のアメリカ映画100】(タイトル、製作年、監督名)

 http://www.bbc.com/culture/story/20150720-the-100-greatest-american-films

 第1位 市民ケーン(1941)オーソン・ウェルズ

 第2位 ゴッドファーザー(1972)フランシス・フォード・コッポラ

 第3位 めまい(1958)アルフレッド・ヒッチコック

 第4位 2001年宇宙の旅(1968)スタンリー・キュブリック

 第5位 捜索者(1956)ジョン・フォード

 第6位 サンライズ(1927)FW・ムルナウ 

 第7位 雨に唄えば(1952)スタンリー・ドーネン/ジーン・ケリー

 第8位 サイコ(1960)アルフレッド・ヒッチコック

 第9位 カサブランカ(1942)マイケル・カーティス

 第10位 ゴッドファーザーPartⅡ(1974)フランシス・フォード・コッポラ


 

 私も映画にはずいぶんと慣れ親しんできたつもりでしたが、100作品のうち見たことのある作品はせいぜい6~7割ぐらいで、知ってはいてもまだ見ていない作品も多かったです。また、数多くの日本映画がベスト100に入っていることは、ある程度予想されたこととはいえ、日本人としてやはり素直に誇らしく思えました。

 こうしたベスト100に数えられるような過去の名作を見ていて、特にここ最近20年くらいの映画(TV作品を含め)の多くが、いかに視覚上の刺激やスピード感、めまぐるしく変化する表面上のストーリー展開のみにその魅力の多くを負っているのかがよくわかります。常に何かが起きていないと、たえず刺激の侵入がないと耐えられない私たち。そんな私たちを飽きさせないものを供給しようとする映画製作者たち。ほんのわずかな隙間の時間ですらじっとしていられずに、思わずスマホの画面を操作してしまう現代人の姿がそれらとダブって見えてしまうのは決して偶然ではないのでしょう。

 

 もし、普段あまり映画にはなじみのない方や古い映画は見ないという方がいらっしゃったら、もうすぐやってくるクリスマスから新年にかけてのしばしの休み、このベスト100を参考に、名画の世界に浸るのも悪くないかもしれません。なにも1位から見る必要はありません。新しい製作年の新しい映画からでもいいし、タイトルや内容が面白そうだと思うものを選んでもいいでしょう。中には難解な作品もあります。退屈に感じたりすることもあるでしょう。映画が製作された時代背景や空気、作品の芸術的意義を理解したり、その時代を生きていなければ本当の良さは伝わってこないものもあるに違いありません。

 けれどもWさんがおっしゃったように、映画とは友であり、教師であり、恋人でもあるかもしれません。彼らとの間、そこには常に学びだけでなく葛藤や孤独、苦悩がある。だからこそ、その先の人生に喜びと希望もまたあるのだと気づかされるのです。

 映画を純粋娯楽として割り切って楽しむことだってもちろん悪くありません。実際私もずっとそうしてきましたし、楽しみ方はそれぞれです。けれどもそれではなぜ人は、はるか遠い昔に創作された映画や音楽、文学や絵画といった諸芸術文化とその作品をいまだ愛してやまず、その輝きと価値を後世へと継承しようとするのか。それは私たち人間の「生」にとってそれらが確かになくてはならないものだからに違いありません。では、それはまたどうしてなのか。ときに考えてみるのも悪くないと思うのです。いまどきの時代の先端や流行、旬な物事はいっとき人の耳目を集めはするが、すぐに次のなにか他のものに取って代わられ用済みになってしまうものがほとんどです。けれども真に価値のある画期的なものは、時代や世代を超えいつの時代にも新しく、私たち一人ひとりの現存在へ常に開かれているものです。それを人は端的に「古典」と呼んできたのでしょう。

 今年はどの映画を見て年末年始を過ごそうか、長いリストを見ながら久しぶりに今からちょっぴり楽しみです。


最後までお読みいただいてありがとうございます。


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by yellow-red-blue | 2018-12-07 15:59 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、カウンセラーとして、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。ブログのどこかに、読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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