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 あたりが一日の始まりの喧騒で騒がしくなる前の静かな早朝、自宅のベランダで外の空気にしばしぼーっとあたっていると、ときおりゴーというかすかな地鳴りのような音が響いてくるのを聞き分けることがありました。朝のトラックや清掃車、ゴミ回収車といった車両音のたぐいかなとずっと思っていたそれが、実は東京湾上空を羽田空港から離陸していく旅客機のジェットエンジン音だと気が付いたのはほんの最近のことです。はるか遠くに小さなピンのようにしか見えないあの旅客機の音がこんなにはっきりと響いてくることに驚きながら、それが空気という見えないものがあたりに満ちているがためその振動として伝わってくるのだということ、つまりあたりは無(真空)ではない証拠であるということを今更ながら実感したのでした。確実にそれは存在しているのだけれども実際には目にすることはない、意識しなければ気付かないような物事が、私たちの身の回りには実はたくさんあるのだということにしばしば気づかされます。

 少し話は飛びますが、たとえば先日現役野球選手からの引退を表明したイチロー選手は、生涯3089本ものヒットを打ちました。けれどもその陰で、その数倍もの打席数の凡退、つまり「見えない」失敗と負けがあったことの重要性を彼は強調します。野球では3割を超えれば強打者と言われるわけですが、しかしよく考えてみれば、それはつまり残りの7割近くは常に「負け」ているということです。その負けがあっての一流選手の証しということならば、私たちの人生にもまた失敗や無駄、遠回りなどない、と考えることだってけっして間違いではありません。



 身の回りにたくさん存在するのだけれども、見えていない、見ようとしないことといえば、この時期、受験という勝負と競争、試練に立ち向かいながら、望みをかなえることのかなわなかったたくさんの人々の存在もそうと言えるかもしれません。桜咲く春の到来のよろこび、卒業という新たな希望への旅立ちというお決まりの情景に隠れて、たくさんの落胆と苦悩があるのもまた現実です。定員10人の学校を100人が受験したなら、90人もの受験生は不合格となっていることになります。結局私たちが普段見聞き注目するのは、本当はずっと多いはずの「見えない」落胆と喪失体験ではなく、わずか10人の歓喜と笑顔ばかりなのかもしれません。

 私たちの生きている社会には、見えていないがいるはずの多くの人々、世に言われ信じられているものとは別の物事なり事情がある、ということにできるだけ繊細な感受性や優しい眼差し持っていたいなと私は思います。それはいつしか自分がそうした立場に身を置くこととなってしまったそんなとき、きっと素直にまずもって自分に、そしてだからこそ他者にも優しく寛大になれるはずだし、そうあるべきと考えるからです。



失敗して落ち込んで、後悔している自分へ

周囲の人間よりダメな人間だとしか思えない自分へ

周囲の人すべてがうらやましく思えてしまう自分へ

どうすればいいのか、よかったのか考えると胸が苦しくなってしまう自分へ

もう一度初めからなんて、こりごりだと思う自分へ

ひとりでいたいのか、誰かといたいのかわからない自分へ

卒業式なんか出たくない、桜が咲こうが咲くまいがどうでもいいと思っている自分へ

やっぱりいつもこうだと思ってしまう自分へ

泣きたいのほどなのに泣けないのはどうしてだろうと考えている自分へ

虹を見てもただ悲しく、むなしくなってしまう自分へ

ひとりぼっちだと思ってしまう自分へ


 どこへ逃げ込んだって、ふさぎ込んだって不機嫌でもまったく構わないのです。義務やら常識、前向きな思考やまわりの迷惑なんて、下品な言い方ですがクソくらえです。

 ただ、できることならせめて自分の気持ちに対しては素直でいたいですね。自分が苦しんだりしていることに言い訳なんていらないし、理由を明確にする必要なんてありません。ただ、「ごめんね。今とってもつらいんだ。」そうつぶやくだけで十分です。誰かに、さもなければ自分自身に。エネルギーが枯渇しているときは、明日への明るい見通しや希望なんて描ける力など残っているはずがありません。それがつまづいた人々に与えられた特権であり、社会における役割であるべきです。いつか助けや救いはどこからか、あるいは自分の中からきっと必ずやってくるものだと素朴に信じられる世の中こそが真に豊かな社会なのだと痛感します。

 人生には、時に悲劇の主人公になることだって必要なのですから。



最後までお読みいただいてありがとうございます。

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by yellow-red-blue | 2019-03-22 14:09 | Trackback | Comments(0)

世界と私 ~ 啓蟄の頃'19

 ああ、やっぱり今年もこの季節がやってきてしまった。もちろんやってくることはとっくの昔にわかっていたことだけれど。もう先月はじめあたりから徐々にその気配は濃厚で覚悟はしていたが、本格的シーズンに入ってくると毎年のことながらやっぱりそのつらさが身にしみ気分も滅入るのだ...春がもうすぐそこまで来ているというのに、桜の花咲く季節もやってくるというのに、外出し友人と会いたい季節なのに。もろもろの願望を見事に打ち砕いてくれるこの微細な粒子どもは私にとってのまさに天敵だ。

 花粉やPM2.5が大量に飛散するこの季節は、おおげさなようだが地獄の苦しみの日々。これでも医者に言わせれば「あなたは軽症ですよ」だそうだが、バカも休み休み言えと心の中でつぶやいてしまう。

 まわりで、「どうやら今年ついに自分も花粉症デビューしたみたいです」などと半ば嬉しそうに(ついそう見えてしまうのだ)陽気につぶやかれると、なんだかその無神経さにむしょうに腹が立つ。そんな人に限ってわずか数年で「気がついたら今年は治ってましたよ」って、そんなの絶対に花粉症じゃない。単なる鼻かぜかそうでなければ気のたるみだ。あなたにつらさがわかろうはずがない、との暴言の数々をぐっとこらえることになるのだ。

 実際、花粉症対策に費やすお金や時間とエネルギーは毎年相当なもの。しかも仕事をはじめ日常生活におけるほとんどすべての活動に深刻な悪影響が出る。鼻づまりで口でしかほとんど呼吸できない状況では睡眠が十分に取れないし、夜中に起きると口内はカラカラ。日中も頭がボーっとしたり睡魔が襲ってくる。マスクをしたり処方薬を飲んでいると体のだるさや鈍い頭痛だってひっきりなしにやってくる。マスクをつけ続ければ、肌に合わないと顔がかぶれたりできものだって出来てしまう。まったくもってやっかいだ。というかほとんど疫病神に近い...

 花粉症対策は巨大なビジネスポテンシャルを有しており、我が国の経済に多大な貢献すらしているそうだがそんな話など聞きたくもない。大勢の人が花粉症にかかってしまうことによる悪影響やら経済的な停滞やら損失のほうがよほど甚大(実際にあちこちでそういう試算が出されているらしい)に違いない。これは十二分に深刻な国家的な損失であり、国を挙げ率先して取り組むべき喫緊の大問題だ、などと叫びたくなってしまう。

 ようやく寒い冬も終わりに近づき、徐々に暖かさとみずみずしさが戻ってきたあたりの空気と陽の光を満喫しながら、花粉・微粒子など存在していないかのように、花のように笑い、陽気に言葉を交わす家族連れやカップル、友達グループを見かけながらつい頭をよぎるのは、「(花粉症であることで)私の過去奪われた大切なときをどうしてくれるのだ」「これがなかりせば私の人生はもっと違うものになったのではないか」「いったい私の人生のどこがいけなかったのか」という聞くだになんともむなしい泣き言ばかり...

 

 毎年のようにひそかに私がつぶやいてしまうこうした鍵カッコ付きの嘆きは、事情は違えどかなりの頻度で相談者にいらっしゃる方々が、どこかのタイミングで実際に言葉として発せられるか感じていらっしゃるものです。抱えてきた精神的病や悩みについて、将来に向かっては何とか取り組みあるいは対処しようもあるのだが、それでは過去に自分が背負い辛酸舐めてきた苦悩の日々と人生はいったいどうしてくれるのか、そして(自分を含め)誰がそれを返しあるいは癒してくれるのか。戻ってくることはないとは知りつつも、そうした思いを完全に断ち切ることができないいわばかなり後ろ向きな動物が私たち人間であるといえそうです。

 残念ながら、私はそうした心をいやす魔法の言葉を持っていません。せいぜいが可能な限りその思いを精一杯理解し、自分なりの言葉でもって表現し返すことぐらいです。そんなことですぐに人が自分の苦悩を前向きに受け入れることなどはできようはずもありません。ただ、昔読んだ吉本ばななさんの小説のなかに出てきたあたりまえのような言葉がずっと妙に心に引っ掛かっていて、今でも時折カウンセリングの場面で触れることがあるのです。


「どちらがいいのかなんて、人は選べない。その人はその人を生きるようにできている」


 私たちはある意味、それぞれが感じる幸せや心地よさの域を出ないよう教わり学び生きてきたに過ぎません。だから人間という命ある生物として、自分を守るために常にそれなりに最善(あるいは最適)を選んできたのだと言えます。そうせざるを得ないのです。他の可能性なり選択肢があって、あのときもっと努力していれば、もう少しだけ我慢していれば、助言に耳を貸していれば、あるいは勇気があったなら、きっと違ったことになっていたはずだ、というのは幻想的な後知恵でしかありません。冷静に慎重に過去を振り返りこころを探っていけば、あるのはただ、その時その時の、そしてそれぞれの、他人には決してくみ取り尽くせない事情やこころの状態であって、決して他の選択はありえなかった、という真実に行き当たるものです。

 後ろ向きな私たちは、「私は常にその時点でベストを尽くしてきた」と納得したり公言することは許されないとおおむね感じて生きています。けれども、どんなことがあったにせよ精緻な因果論や原因究明は概してうまくいかないものです。なぜならばシンプルに私自身ひとりのために世界が動いているわけではないから。分かっていてもひとりそれを受け入れるのは容易なことではありません。どうしたらそのお手伝いができるのかを私は日々模索しているわけですが、何故だかそんなとき、冒頭のように花粉症にあれこれもがく自分が妙に被ってきてしまうのです。もうまもなく春一番が吹きそうな気配ですが、喜ばしいやら悲しいやら...



“世界は別に私のためにあるわけじゃない。だから、いやなことがめぐってくる率は決して、変わんない。自分では決められない。だから他のことはきっぱりと、むちゃくちゃ明るくしたほうがいい(中略)

 そのころの私には、その言葉の意図はつかめたけれど、ぴんとこなくて「楽しさってそういうものなのかな」と思ったのを覚えている。でも今は、吐きそうなくらいわかる。なぜ、人はこんなに選べないのか。虫ケラのように負けまくっても、ごはんを作って食べて眠る。愛する人はみんな死んでいく。それでも生きてゆかなくてはいけない。”   (吉本ばなな『満月-キッチン2-』角川書店)



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by yellow-red-blue | 2019-03-06 11:10 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、カウンセラーとして、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。ブログのどこかに、読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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