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  Мさんは絵がとてもお上手です。趣味だという水彩画の腕はそれこそ玄人はだしともいっていいもので、どんな風景も手慣れた筆致でていねいに描き上げます。海を描いたものが多いです。逗子にある自宅からは海がほど近く、たいていの穏やかな天気の日は折りたたみ椅子と画材一式、奥様が用意するお弁当を車に詰め込み、周辺の海辺を巡ってはいい場所を探し何時間もそこで過ごしあたりを描くといいます。仕事を引退した今ではそれが一番の楽しみと話している今この時も、自宅から車で二十分ほど出かけた小さな港の隅にある公園でスケッチをしています。

 Мさんは建築士事務所を長年営んできました。建物の設計デザインがお仕事なので絵が上手なのもうなずけます。今と違って便利なコンピュータやソフトなどなく、設計図から何から何まで自分で線を引き手書きをするのが当たり前の時代は、建築家を目指すたいていの人はみなデッサンや絵が巧みだったねとお話になります。

 瀬戸内の小さな港町に生まれ育ったМさんは、苦学のかいあって東京の一流大学に合格、建築家を目指し勉学に励み、大学卒業後はゼネコンの名門に就職、やがて一級建築士の資格も取得しました。本当は画家になりたかったといいますが、画家では食べてはいけないだろうと建築家をめざすことにしたのでした。戦後高度経済成長期のただ中、建設ラッシュと好景気に支えられ誰もがうらやむエリート街道を進むことを約束されたかのようなМさんは、家族親族の希望の星であり、小さな田舎町である郷土の誉れですらあったといいます。大げさに思われるかもしれませんが当時はそんな時代だったでしょう。二十代半ばには結婚もし、周囲からすべてが順調に行っているように見られていました。


 

 けれども、職場の労働環境は入社当初から厳しいものでした。一級建築士の資格を取得してからはさらに苛烈を極め、主任技術者として早朝から夜遅くまでの建設現場での勤務、その後会社に戻り残務処理などの業務に追われ、休日には住宅販売の営業業務もやる毎日。毎晩帰宅は深夜の一時か二時。それでも翌朝六時には起床して建設現場へと戻る毎日でした。現場では日々様々な工事遂行上の困難や作業従事者に関するトラブルが立ち上がり、それらへの対応の難しさからくるストレスに疲れ果て、次第に精神的に追い込まれていきました。

 会社には俗にいう過労死(待機)リストなるものが存在していたそうです。それは公然の秘密で誰もがそれを知っていました。周囲では多くの人が過労死や精神的破綻に追い込まれていきました。けれどもМさんの働く業界でそれは珍しくないことであり、そうしたことに対する根本的な疑問の空気はほとんどなかったといいます。それが当時の会社だったのでした。

 やがて自分の名前がリストの筆頭に上がったことを同僚のうわさで聞かされたМさんは、会社や周囲から強い説得や引き留めもあったものの、悩んだ挙句に退職し独立開業の道を選びました。本当にもう限界でした。自分がまだそうした決断ができる精神状態であったことがせめてもの救いだった、そうお話になります。

 

 独立開業後は好景気にも支えられ、仕事を依頼してくれる人もいて何とか続けていくことができました。けれども実際仕事が軌道に乗るまでは厳しい道のりでした。ただ設計していればそれでというものではなく、現場作業の管理に加え、現場作業員をかき集めたり、給与報酬の交渉もひとりでやらなければならないこともあったそうです。トラブルも珍しくなかったといいます。ある時、施工依頼主から作業が止まっているとクレームがあったのでМさんがあわてて現場へ行ってみると、現場の棟梁が突然消えてしまい工事がストップしていました。このまま契約の履行がなされなければ莫大な賠償金を個人で負担しなければならなくなってしまうことから、とにかくその日のうちに代わりを探さなければいけなくなったМさんは、山谷のいわゆるドヤ街まで出かけ、簡易宿泊施設を回り夜遅くまで代割の職人を必死に探し回ったそうです。他に頼る人もいないため、Мさんの奥様も同行し手伝ったそうですが、当時山谷は女子供が安心して行けるような場所ではなく、奥様は内心とても怖かったそうです。


 

 Мさんが会社を去るにあたって一番つらかったことといえば、会社を辞めることを知った身内からの非難と無理解でした。自分の将来をどぶに捨てるような決断をして後できっと後悔する、誰もが我慢して頑張っているのに、なんて弱い情けない人間だとさんざんにののしられました。挙句、非難の矛先はМさんの奥さんにまで及びました。きっとあの嫁にたきつけられたに違いない、都会育ちの嫁がいらぬ入れ知恵をした、子どもも作らず好きなように生きているあの女Мさんをダメにした、など根拠のない辛辣な陰口をささやかれたそうです。

 実際は、Мさんのことを理解し支え続けたのは奥さまだけでした。彼女がいたからこそ何とかここまでやってこれたとМさんは言います。それでもそんな身内や知人からの仕事の依頼で助けられたこともあったから、文句もいえなかったといいます。家族とはありがたくもあり迷惑なものでもあるとМさんは苦笑しながら当時を振り返ります。

 あの時の選択が正しかったのか間違っていたかはわからない。別の人生もあったかもしれないし自分も若かったからもう少し器用に生きてこれたかもしれない。でも今がまあまあ幸せと感じているのだから、正しかったでやっぱりいいでのはないか。そうМさんは考えています。


 

 ところで『安全第一』の意味知ってる?とМさんが質問をしてきました。はて、建設の現場などでよく看板表示されているお馴染みの標語だとすれば文字通りそのままの意味、危険と隣り合わせの工事現場での事故防止と安全な工事実施を徹底しますとの近隣住民への配慮と現場作業従事者の自覚を宣言したものではないでしょうか、といった感じで答えると普通はそう思うよね、でも本来の意味は違うんだよ、とМさんは説明します。

 『安全第一』は、もともとアメリカの鉄鋼王のカーネギー(それはМさん記憶違いで、実際は有力鉄鋼製鉄企業USスティールのトップだったエルバート・ゲイリー)が宣言した『safety first』の翻訳で、劣悪で危険な労働環境で犠牲者も多かった二十世紀初頭の時代に、彼はそれまでの利益第一主義、安全は二の次だった経営方針を転換して、安全第一、利益や生産性はあくまでその次との新方針をはっきりと打ち出したのが始まりだといいます。

 つまり安全第一という標語は本来、会社にとって最重要なのは従業員の安全であり、企業利益や生産性はあくまでそれが達成される限りにおいて追求します、という経営者の労働者に対する「誓い」だったのです。「安全第一」の看板は工事現場ではなく、社長や重役達の部屋に掲げられるべき言葉なのだと。それがいつしか時代とともに形骸化し、その他にもいろいろな標語がやたら編み出され、結局現場の作業員を律するような合言葉みたいになってしまったところはいかにも日本的といえるのかもしれません。

 

 その後もしばらく話は続きました。絵を描きたいと思うようになったのは、独立を決めて東京を離れてこっちへ引っ込んで随分と経ってからだよ。絵を描いているとき何を考えているかって?何も考えない、本当に何も考えずにただ描くんだ。自分が設計した建物への愛着?もうあまり覚えていないよ。でも自宅だけはやっぱり愛着あるかな。仕事場は六本木? あのあたりでも昔ビルや建物を設計したね。古いけど今でもあるんだろうか。機会があったら行ってみたいけど。でも無理かなもう。趣味がない?そりゃいけないな。なんでもいいから持つといい。忙しすぎるのもダメだがヒマもいけないよ。(私の職業について)そんな職業当時もあったかもしれないが、いやそれでもなんともならなかったかな。それが異常なことだという認識や空気が会社や現場ではなかったから。『それが会社だ』って時代だったからね...


 来年東京ではオリンピックが開かれる。建設ラッシュ、新しい施設や景観と経済効果への期待、興奮と感動、未来への希望。五十五年前の東京オリンピックのときとなにも変わりはしない。多くの人の汗と努力の結晶だと人はまた言うだろうね。けれどもそんな言葉は、所詮は後年まだ生きている人達の自己満足の感傷にすぎないよ。犠牲となっていった人々やその家族は、昔も今もそしてこれからも語られないままなのさ。


 

 Мさんの絵はとても穏やかです。パワーは感じられないが力が抜けている。心に負った何かをだましだまし癒すかのようにゆっくり描いていきます。

 最後にМさんは言いました。

 「そのうち絵を送るよ。たくさん描いても貰ってくれる人もいないからねぇ。」




最後までお読みいただいてありがとうございます。

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by yellow-red-blue | 2019-07-23 16:27 | Trackback | Comments(0)

 全国的にあいにくの梅雨空、七夕の空に天の川を拝むことはどうやらかなわないようです。長雨や鬱陶しいどんよりムシムシとしたお天気も考えてみれば梅雨の時期ならではの空模様なのですから、いかにもらしい季節を味わっているともいえるのですが、大きな災害をもたらすほどの荒天の報に日々接すると、やっぱり異常気象の言葉が頭に浮かび、そうのんきに穏やかな気分でもいられません。

 七夕といえば年にたった一度、織姫と彦星が会うことのかなう日であることにちなんで、それぞれが願いを込めた色とりどりの短冊で笹の葉を飾りこの日を祝うことはよくご存じのとおりです。仙台の七夕祭りのように地域を挙げ盛大に催されるお祭りもあり、夏至を過ぎ小暑のちょうど今頃、本格的な夏の始まりを告げる風物詩でもあります。

 悲しくもロマンチックな織姫・彦星伝説は、中国の古いおとぎ話がそのもとになっていますが、歴史上中国文化の影響を強く受けてきた日本では、七夕伝説も古代の頃から親しまれていました。今ではひたすら自らの願望の実現を祈るイベントのような扱いにもなっていなくもありませんが、古代の日本人にあっては、この七夕伝説の逸話そのものが時節季節を問わず折にふれ意識され、感情を強くゆさぶるものであったようです。


 和歌の名手として三十六歌仙のひとりに数えられる万葉歌人、大伴(中納言)家持はこんな歌を残しています(横書きだとちょっと違和感がありますね)。


 かささぎの 渡せる橋に おく霜の

 白きを見れば 夜ぞ更けにける


(歌意)

 カササギが群れをなし翼を広げ天の川に架けた橋のように、宮中御殿を結ぶ階段には真っ白な霜が降りている。その白さを見ると、夜もすっかり更けてしまったと感じられることだ。

 

 厳しい冬の寒さの情景を描いたものでありながら、実はこの歌には七夕伝説が巧みに織り込まれています。中国の伝説では七夕の日、かささぎが群れをなし翼を広げて連なり、天の川に架ける橋となって、織女(織姫)を牽牛(彦星)のもとへと渡し、二人の逢瀬を助けるのです。カササギは漆黒のカラス科の鳥ですが、お腹と肩のあたりだけが白いのが特徴です。

 アーチ状にかかる宮中の橋に降りた真白な霜のあまりの美しさに、七夕伝説のカササギを連想し、暗く寒い深夜であることも忘れ感動しているさまがありありと伝わってきます。小倉百人一首にも選ばれているこの名歌からは、万葉人の七夕伝説に寄せる思いが色濃くうかがい知ることができます。

 それほどまでに古代日本の万葉の夜空は美しく、人々は壮大な天の川を身近に感じ、それこそ時節季節を問わず見上げていたことでしょう。いつの頃からかほの暗さを嫌うようになっていった私たちが暮らす世の夜では、例外はあるにしろそれはすでに極北のオーロラを見るがごとく困難なものになってしまいました。漆黒の夜空にきらめく無数の星々の姿を見失ってしまった自分と日常にふと気づかされるのが、ある意味現代の七夕なのかもしれません。令和と命名された時代にはるか一千数百年前の万葉人のたおやかな心に憧れるのも、ロマンチックなようでもまた皮肉なようでもあります。


                     *

 

 先日近所で用事を済ませての帰り、普段何気なく通り過ぎる小さな公園の前でおや、と歩を緩めました。ただでさえ子どもの遊び場が不足がちな都心にあって、ほんのわずかな住宅地の隙間に設けられたその公園は、いつも遊びに夢中な子どもたちがそれこそギュウギュウ詰めに歓声も絶えないのですが、梅雨の晴れ間のしかも週末にもかかわらず、だれもおらずひっそりと静まりかえっていることにふと気づいたからでした。

 よく見れば、老朽化が進み安全性に問題のある遊具の撤去通知の看板と、立ち入り禁止の黄色いテープが遊具の周囲をぐるりと張り巡らされていました。最近しばしば見かける光景です。ブランコや滑り台、シーソーやジャングルジムといった公園や学校の校庭によくある遊具には、大人であれば誰しもがちょっぴりノスタルジーの情を覚えてしまうもの。幾世代何十年ものあいだ、子どもたちに使われた遊具が時代に取り残され用済みになり、撤去を待っているそんな光景にふと切ない思いがこみあげてきてしまいなくもありません。

 そんな事情を知らずにやってきたのでしょう、公園の前には所在なげにたたずむお父さんと小さな子供のうしろ姿がありました。ふたりの背中からは、落胆と去りがたい思いとがありありとうかがえます。けれどもその淋しげな背中の下で、大きな手に優しく包み込まれた小さな手は、古き時代は去り行くけれど、親子の情や絆はいつの時代も変わらずにある、そうであってほしいと願うには十分なほど愛おしく私の目に映りました。

 


 昨今、家族や親子にまつわるやるせなさを超えなにか殺伐とした陰鬱な話題に接することが多いと感じられるかもしれません。そうしたある意味日常を逸した異常な出来事を日ごとさまざま報道するのが情報メディアの仕事であることを思えば、そうした事態にばかり私たちの注意と関心が行ってしまうのは無理からぬことなのかもしれません。けれども、盛んに報道されているからといってそうした出来事が増えている、常態化している、だから世の中は真っ暗である、とまでは言い切れません(もちろんそれらが氷山の一角に過ぎないという可能性も常にあります)。人は、とりあえず身近にあるいは頻繁にもたらされる情報を受け取ることが習慣化することによって、思考や判断の際にそうした偏った情報にのみアクセスしやすくなる認知ルートが出来上がってしまいうというやっかいな特徴をバイアスとして持っています。つまり、概して我々が抱いている「実感」と「事実」とには大きな隔たりがあるものなのです。

 不幸な人は不幸な側面を見、幸福な人は幸福な側面を見がちで、結果世の中もそうしたものに違いないというバランスを欠いた認知を素朴に持ってしまいがちなのかもしれません。どちらととるかは人や事情でそれぞれでしょう。ただ世を騒然とさせる事件や痛ましい出来事は私たちの社会の投影であり、両者は抜きがたく結びついていることもまた確かなことのように思えます。決して自分とは無縁ではなく、いえむしろ私たち一人一人が社会の構成員であるように、様々な出来事なり現象に、私一人一人は直接的にしろ間接的にしろ加担しているのだ、という批判的で観照的な視野と態度を忘れないことが、複雑で変化に富んだ厳しい今の時代だからこそ私たち一人ひとりに求められているのだと感じます。




                    *

 

 ところで、後ろ手に握りあう公園の親子の姿を見てある映画を思い出しました。秀逸なパントマイム芸でその名を知られた舞台コメディアンのジャック・タチが監督・脚本・主演をした映画『僕の伯父さん』(仏,1958)です。私の最も好きな映画のひとつです。 

 セリフらしいセリフは最小限(主演のタチが扮する伯父さんはたった一言だけ喋るシーンがある)で、ストーリーもあるようでなく、日々の逸話の重なりといった奇妙で個性的な映画は、けれども風変わりな社会風刺コメディという表層に隠れつつ、私たち一人ひとりそれぞれに豊かなメッセージをもたらし、いとおしさと静かな感動で心満たされる映画史上の傑作なのです。

 2時間を超える長尺の映画は、テンポも遅くプロット(変化に富み入りくんだ筋立て)もなく、したがってなにも起きているようには思えず(戦後の小津安二郎の映画にどこか似ていなくもありません)、現代の映画やテレビシリーズ作品に慣れている人にはその意味を図りかね、退屈にすら映るかもしれません。

 けれどももしそう感じたのなら、そう感じている自分と向き合ってみる逆に良いチャンスかもしれません。この映画が自分にもたらすものは何か。もしかするとそれは今の自分がどこかへ置き忘れ忘れていたもの、本当は求めているもの、今こそくみ取る価値のあるものかもしれません。文化芸術のすぐれていいところはそうしたところにあるのではないでしょうか。

 鬱陶しい梅雨空が続く中、どうせならしばし家にこもり、60年あまり前に作られたこの映画を楽しんでみてはいかがでしょう。「後ろ手の親子」の意味もきっとわかります。




最後までお読みいただいてありがとうございます。

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素晴らしい出会いがたくさんありますように

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by yellow-red-blue | 2019-07-07 00:04 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、カウンセラーとして、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。ブログのどこかに、読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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