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「違い」を恐れる・攻撃する人の心理④ ~ 秋分の頃'19


 はるか太古の昔に私たち人類が自然界で生存し続けるため身につけたさまざまな自己保存のための生理反応は、進化という歴史を経てもはや生きるか死ぬかの闘いの必要性が薄れてきた今では、むしろ絶えまない変化と多様化を見せる社会環境や対人関係という「場」において発動されるようになっていきます。そうした「場」が進化上の時間的スパンから見ればきわめて短期間のうちに劇的な変化を遂げてきたにもかかわらず、私たち自身は相変わらず「ヒト」という種のままでいるというギャップが、私たちをさまざまに悩ませてきたといえます。

 人は、人間関係という外からの刺激や要請をときに驚愕や動揺、恐れなどといった感情を伴う「脅威」や「危険」として受け止め、排除しようと様々なストレス反応を起こすようになります。

 けれども相手もまた人間である以上、「脅威」や「危険」を察知したからといって、生命を奪ったり目の前から排除するような直接的攻撃がもはや許されない社会生活に適応しなければならない私たちは、相手に精神的というより間接的な「攻撃」で脅威に対処し、欲求を満たそうとします。精神的に圧力をかけ屈服させ、あるいは優位に立つことによって、みずからの立場の安心・安全を確保しようと欲するのです。

 問題は、自然からもたらされるものは誰にとっても明らかな脅威なり危険であるのに対して、人間関係は、必ずしも誰にでも同じように脅威や危険を意味するのものではないということです。むしろある特定の人や状況において、「脅威」「危険」として「受け取られ」てしまうところに事の難しさがあるのです。

 と、ここまでは前回までのブログの内容をあらためてまとめてみたものです。



 

 では、相手を深く傷つけ、苦しめるほどの非常識な攻撃をしてしまう人が、もはや命のやりとりなどほとんど皆無といってさしつかえない日常の社会生活や人間関係において、「脅威」や「危険」であると反応してしまうほどの生理的なインパクト(衝撃、刺激)とはどういったものをさすのでしょう?


 その正体のひとつが、「違い」というとてもシンプルなインパクトです。

 様々な意味において相手が自分とは違う、異なる、あるいは単に知らない、新しい(相手)であるという状況は、本来人にとっては十分に衝撃的です。

 人間には元々、同じであること、似ていること、いつもと変わらぬこと、ということに安心と安全、親近感を持つ動物であり、それはたいていの生き物も同じといえます。危険であるかそうでないかを区別するうえで最初で最も基本的な情報は、相手が自分と同じであるか、知っているか、慣れ親しんでいるかあるいはそうでないかということであって、そうしたことに私たちはとても敏感です。これは、前回お話した「コントロール欲求」という自己防御反応と同じと考えてもいいものです。

 したがってどのような理由であれ、自分とは何らかの点で違う、異なる、あるいは普段の状況とは様子が異なるということを察知すると、とたんに心の警報が鳴り響きます。相手や周囲を警戒し緊張するようにできているのです。

 そうした生理反応なり習慣が依然私たちに根強く残っています。違うもの、未知のもの新しいもの、今までに経験したことがないものという形の「違い」に注目・警戒します。そうした根源的な「違い」によってもたらされるインパクトは、現代社会が進むにつれてさまざまな思考感情へと置き換わり、そのバリエーションを増やしていくこととなります。

 容姿や年齢、見た目や性差、言葉や文化的背景に始まり、考え方や意見、話し方に行動様式、価値観・倫理観、周囲からの評価や反応、出自学歴、能力や健康状態など、社会生活における自分とは違う、異なるという衝撃のバリエーションはそれこそ多彩です。こうしたことに対処するすべを、私たちは経験や学習、養育環境や周囲の協力などの力を借りながら人生で学んでいくのですが、これはかなり難しい課題であることは今までも指摘してきました。衝撃を違和感や不満程度になんとか収めつつやり過ごすことができればいいのですが、なかには過剰に衝撃を受けとり「違い」に耐えられず、相手をやり込めなければ気が済まない、攻撃(彼らにしてみれば自己防衛)という圧力をかけ続けなければ自分の警戒感や不安は解消されないと信じているかのように振舞ってしまう人たちがいるのです。

 

 

 世界で起きている民族間の紛争や宗教対立、人種差別や障害や病気を持っている人に対する根強い差別や偏見が消えることのない根底には、相手をよく「知らない」「未知」という形の「違い」のインパクトがもたらす「不安」と「不信」を消すことができないという葛藤が隠されています。


 「転校生いじめ」「新入生いじめ」などは昔からよく聞きますが、でもそもそもなぜ彼らがいじめられるのか実際のところよくわからないことのほうが多いのです。いじめる側の人間性の問題だなどというばかりでは、この昔から続く攻撃を説明することはむずかしいかもしれません。これも同じように、「新しく」やってきた人、「なじみのない」人、「変わっている」と見なされる人が自分のそばにやって来たという「違い」は、ある人たちにとっては未経験という「不安」や「いらだち」として表現されてしまうのです。もちろんいじめる本人たちにそうした自覚はほとんどないといっていいでしょう。


 「自分よりすぐれている」という「違い」もある人にとってはインパクトが大きいものです。学歴や能力、人気や人望、容姿、収入身分の差など、そうした自分との「違い」のもたらすインパクトは、容易に嫉妬や劣等感、敗北感に置き換わり、ハラスメントへと移行するエネルギーとなっていきます。


 人には言えない苦労や失敗や挫折を重ねながらも必死に頑張って現在ある地位を得てきたような人にとっては、同じような艱難辛苦(かんなんしんく)を味わってこなかったり、そうした思いを軽視するかのように振舞う人間の存在は、その「違い」の落差ゆえに十分な脅威です。そのインパクトは、自分が大切にしてきた価値観を共有せず生き方を否定されているかのような「侮辱」や「怒り」に置き換わり、ハラスメントに発展するエネルギーとなっていきます。先輩‐後輩関係、上司‐部下、指導教育者‐生徒関係にみられる、いじめやしごき、パワハラ・モラハラなどにもよく見られます。


 自分が耐えたり我慢していること、必死に努力してもうまくいかないことに対して、正反対の結果や反応を示す「違い」を持った人に対しても、同じよう屈辱と侮辱が生まれます。頑張ってダイエットして食事を制限してもなかなか痩せられない人にとって、細身でスタイルのよい人から、「ダイエットなんてできないし経験がない。むしろもっと太りたいぐらい。」などと笑って言われれば思わずムカッとしてしまいますね。

 かのマリー・アントワネット王妃が、生活と飢えに苦しむ庶民の境遇に接し、「パンがないならお菓子を食べればいいのに」と言ったといいますが、こうした無神経な言葉の背景にある階級格差という「違い」のインパクトが民衆の激しい屈辱と憎悪をかきたて、やがてフランス革命へと突き進んでいったことは周知のとおりです。


 さらに、自分とは単に異なる意見や考えを持ったひとの存在、あるいは議論することに意欲的な人の存在だけでも、ある人にとっては十分な衝撃であり攻撃のターゲットになり得ます。何故なら「異を唱える」「議論する」という形で表現される「違い」を、そうした人は「自分にたてついている」「自分は否定されている」という形でのインパクトとして受け取ってしまいがちだからです。自分を守りたい人は、異なる考えを持つ人をやっきになって否定しようとハラスメントのターゲットと見なしてしまうのです。

 

 セクハラの場合はどうなのでしょう。自分の人間関係上に、予想外に身近な存在として異性が現れた(会社で上司部下の関係になった、電車内での痴漢行為や飲み会の席上でのセクハラ行為など)という、いままでにはなかった状況という「違い」が、自分の潜在的な性的欲求やその他の日常生活上のフラストレーションを刺激したという点では、共通しているところがあるといえます。そして、相手を無視し、性的な欲望を無理やり実現させたいとの身勝手かつ理不尽な要求なり行動は、れっきとした相手に対する攻撃に他なりません。しばしば痴漢などわいせつ行為を行ったのは、相手の服装が派手ないし挑発的だったことを理由にする人もいるのですが、これもまたそうした外見の「違い」に衝撃を受けた結果の、性的な行為という形を借りたゆがんだ攻撃的報復であると考えてよいかもしれません。

 

 

 今回は、人が「違い」からいかにインパクトを受けるか、ある人にとってはそれがいかに耐えがたいものになり得るかについて説明しましたが、実はもうひとつ人にはときに受け入れがたいインパクトが存在します。

 それが実は「違い」とは正反対の「同じ」であるというインパクトです。なんだか矛盾しているようですが、それについては次回触れたいと思います。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

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by yellow-red-blue | 2019-09-24 14:37 | Trackback | Comments(0)

「脅威」に備える・攻撃する人の心理③ ~ 白露の頃'19


 人が他人を攻撃する理由は、攻撃する側の人が相手から攻撃を受けたと感じているからそれに対して反撃するのだ、と述べました。攻撃する人にとっては、何らかの形で自分に向けられた「脅威」「危険」が存在し、したがってそうした脅威なり危険から自分を守るために相手を攻撃したのだ、ということになります。こうした考えや行動の背景に、自己を防御しようとする生理的反応のようなものがかかわっていると前回述べましたが、これについて少し詳しく説明してみます。



 

 かつて人類(ヒト)は、恐ろしい巨大爬虫類や猛獣、自然災害といった外的脅威に対して今の私たちよりずっと脆弱で弱い生き物でした。したがってヒトも他の動物と同様、いかにそうした脅威から自分の生命を守り生き抜くかということがすべてに優先されました。自分の生命を守るための方策として獲得した自己を防御するための生理的反応のひとつに、語呂合わせ的にわかりやすく「闘争か逃走か(fight or flight)反応」と言われるものがあるといわれています。相手が危険であるとわかれば一目散に逃げ、捕食される危険を「回避」なければならないし、戦えるあるいは戦わざるを得ないと判断されれば、相手に立ち向かい危険を「排除」しようとするわけです。

 いまひとつの自己防御反応が、まわりの状況に対する「コントロール欲求(反応)」です。これは素早く的確に「闘争か逃走か(反応)」を導き出せるよう、身の回りをできるだけ自分にとってクリアでわかりやすい環境(世界)として理解しておきたいとする生理的な欲求です。できるだけ安心を味わい安全であることを確認したい私たちヒトは、「あの生き物はおとなしく害はない」「あそこの草むらには危険な生物がひそんでいる」などとリスク評価をおこない、状況を自らのコントロール下に置きたい、その後の「闘争か逃走か反応」を正しく導きたいたいとする欲求が強いのです。

 では、かつてヒトが生きのびるに必須であったこうしたワイルドな本能的生理反応が、その後の進化の過程でヒトが食物連鎖ピラミッドの頂点に君臨するに至り、不要となり消えていってしまったのかといえば必ずしもそうとも言い切れません。そうした自己防御反応を発動させる新たな対象として、自然界の脅威に取って代わって出現するのが、大規模に形成されてきた「社会」や「対人関係」という脅威なり危険です。

 もはや生命身体の危険を感じる必要性のないはずの日々の社会生活上の問題や他人が取る何らかの行動、ふるまいについて、実際にそうであるかは別にして私たちは「脅威」なり「危険」として受け取ってしまいがちなのですが、これは何故なのでしょう?


 

 霊長類である私たちヒトは、およそ六百~七百万年ぐらい前に他の類人猿と分岐して以来、長期にわたる狩猟採集生活を経て一万年ほど前から定住農耕生活を始めました。実はヒトはもうすでにその時点で遺伝子的にいうと現代人と変わらない身体的知的ポテンシャルを有していたそうです。私たちの身体や脳、あるいは精神のメカニズムは、実はその進化上の歴史のほとんどの期間を占めた狩猟採集時代を生きるために長い間かけて完成したものであり、以降それらにはさしたる変化はありません。  

 それが意味するものとは、数百万年という実に長い間かけて出来上がったこのヒトの心と身体は、それに比べれば時間にしてほんの一瞬であるといってもいい、たかだかここ二百年ぐらいの間に起きた目まぐるしいスピードで変化する社会経済環境や生活習慣、対人関係といういわば「大変動期」にリアルタイムに適応するようにはもともとできていない、ということなのです。

 七百万年の進化の過程の末の身体・脳と、わずか二百年足らずの間に急激に変化し今後さらにその変化のスピードは加速度的に上がっていくと考えられる現実の社会環境とのギャップというかミスマッチを、現代の私たちはせいぜいが百年というその短い生涯における発達や学習経験によって必死に埋め合わせ、変化に適応していかなければならなくなったのです。けれども、それにはもともと少し無理があるのです。頭では理解できても体はついていかない、そんな感じなのです。適応の程度に至ってはそれこそ人によって千差万別であることは言うまでもありません。

 私たち人間を様々な負担から解放し、快適で豊かな社会を実現するはずのさまざまな科学技術や経済の急速な発展を背景とする社会環境が、逆にこうしたミスマッチを拡大させ、常にどこか無理して生きることを余儀なくされる社会の出現を許してしまうという皮肉な現実があるようです。人間をとりまく社会環境がそれに適応するには種が変わってもおかしくないほどの劇的な変化を短期間に遂げてきたにもかかわらず、私たちは相変わらず「ヒト」のままでいることが問題の根本にあるといえるかもしれません。



 

 なんだか大げさな話になってしまいましたが、簡単にまとめてみます。ヒトにはもともと外的な脅威に対して回避するか排除するかを判断するための「闘争か逃走か反応」と「コントロール欲求反応」という自己防御のための機能を持っており、その脅威となる対象は主に対人関係に置き換わりはしたものの、今もってわたしたちが日々の生活で駆使しているものなのです。

 けれども、そうした機能を現代の社会環境に柔軟に合わせ発動させ脅威に対処するのは、私たちが「ヒト」である以上実はかなり困難なことでもあって、ときに不適切でバランスを欠いた「闘争か逃走か反応」と「コントロール欲求」を他者に対して発動してしまうのですが、そのことになかなか気づくことができません。こうした事情が相手を「攻撃」してしまう背景にはあり、現代社会に生きる私たちの対人関係における悩ましい現象の根底にあると考えられます。

 次回は、では攻撃する人が考える今の時代における「脅威」とは何なのか。何が他の人と違ってどうとらえているのかを具体的に見ていきます。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

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by yellow-red-blue | 2019-09-08 17:53 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、カウンセラーとして、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。ブログのどこかに、読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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