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非日常の日常・スキーマという呪縛③ ~ 雨水の頃'20


 人はみなそれぞれに違います。歩む人生もまたそれぞれです。もともと持って生まれた生物遺伝学的あるいは先天的な素因だったり、育った生活や環境の質の違い、幼い頃から親や家庭、周囲から受けてきた教育やしつけ、成長過程でのさまざまな学習・経験、日々体験する日常の出来事といった、さまざまな条件なり事情が網の目のように複雑に絡み合い関与しながら私たちの人格、パーソナリティは形成されていきます。したがって、それぞれの人生の過程で私たち個人に備わるスキーマもまたきわめて多彩多様です。  

 個人的スキーマは、自己や他者、世の中や人生についての動かしがたい信念や固定された概念であり、ときに絶対服従ともいうべき強固な人生ルール、疑問を挟む余地のない「事実」としてしみ込んでいるマイ・ルールといえます。

 人生においてそれなりに健全なスキーマを柔軟に行使しながら生きることが望ましいのでしょうけれど、前回もお話した通り、スキーマにはひどく柔軟性に欠けるところがあって、それは個人レベルでのスキーマもまた同じです。つまり、そうはなかなか上手に働いてくれないのが私たちが持つスキーマなのです。過度にポジティブだったりネガティブだったりして現実とはつり合わない非合理的で極端な思考や行動パターンを生み出してしまうような個人的スキーマが染みついてしまうと、人生を生きることがとてつもなく困難なことのように感じられてしまいます。



 

 とりわけ、過去において肉体的精神的虐待や情緒的なネグレクト、貧困といったトラウマになり得る逆境的困難や問題ある社会生活環境、対人関係に継続的にされされてきたような人々であったり、非日常的で異常な災害や事故、犯罪に巻き込まれるなどの強烈な被害体験をした人にとっては、そのあまりに過酷な体験に圧倒され深刻に傷ついてしまった自律心や自尊心、深く刻み込まれてしまった自己否定的感情や根源的恐怖心ゆえに、不適切で生きるにつらいスキーマが形成され、結果としてその後の人生において心身の健康や社会適応に悪影響がもたらされ、場合によっては情緒・認知面での深刻な疾病や障がいにつながるケースもあることが知られています。

 

 「人生は苦痛でしかない」「だれも信用できない」

 「失敗や叱責、間違いは決してあってはならない」

 「私は欠陥ある人間だ。だれも相手にしてはくれない」

 「安全な場所などない」「私は汚れた存在だ」


 個人的スキーマは客観的にはこのような表現として理解されますが、ほとんどの場合、本人が自覚して明確に言葉にできるようなものではなく、自動無意識的にこれらに沿った行動、判断、振る舞い、対人関係を通して「選択」されていきます。

 トラウマなどを受けたことによる根源的な恐怖、不安、恥辱感や自責感情と、そこから導き出されるスキーマを基底とする行動や振る舞いは、周囲からはしばしば理解しがたいものであり、本人もまたそうした不適切なマイ・ルールを持って生きていることを容易に自覚することはできません。こうしたマイ・ルールを持ちそれでもなんとか生きていくことは、絶えずブレーキを踏んでいることに気づかないままアクセルを吹かせ前に進もうと必死になるような苦しいものです。けれども本人にとっては、スキーマに基づいた不適切で場合によっては破滅的ですらある人生観や生き方のほうがむしろ当たり前の「日常」なのであって、そうしたことに疑問を持つことを知りません。そうすることは人生を生きる上でその人なりの精一杯の対処法であり、自分の身を護るためのもろいけれど偽らざる心の鎧だからです。

 非日常的な世界に対処するためのスキーマが当たり前になってしまった人の目には、他者が普通に受け入れている日常こそが「非日常」であり、そこには恐怖と不安、乗り越えるにはあまりに高いハードルが日々待ち構えているようにしか映りません。そして結局その日常にすら逃げ場がないとすれば、残された逃げ場は自分のこころの中にしかなく、そこへ退避しひたすら閉じこもることしか他に道は残されていないのです。

 

 

 カウンセリングを通して、私はこうしたスキーマにまつわる困難な状況に至るには、必ずしも今まで述べてきたような誰にもわかりやすいあまりにひどい体験や過去を経る必要はなく、普通に暮らしている(ように見える)多くの人もまた、その人なりのオリジナルな人生の事情なり体験からくる、他者から見て理解困難なスキーマを抱え悩んでいるのだということを知りました。

 人間である限り私たちは誰もがスキーマを持ち、そのすべてが健全なものであるとは限りません。そのことが意味するのは、社会を揺るがせ私たちを不安にさせる虐待やいじめ、ハラスメント、凶悪犯罪、ひきこもりといった痛ましい社会問題が根絶に程遠いのは、自分達とはまったく無関係でかけ離れた、まともでない人間の所業なのではなく、それらがまさに誰の運命にも起こり得る(た)共通の課題であり、被害者と加害者とはある意味混然あるいは同居しうるのだ、という目をそむけたくなる現実があるからなのだと感じます。

 社会に生きている以上、そこで起きるさまざまな現象の背景に私たち一人ひとりは直接的間接的に「加担」しています。そうである以上、今身の回りで起きている様々な問題について、表面上の異常性ゆえにそれは自分達とは無縁の特別事情でしかないと目を背けるのでなく、私たち自身の問題として真剣に受けとめるべき時にきていると考えています。


 *指輪ものがたり


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by yellow-red-blue | 2020-02-19 10:42 | Trackback | Comments(0)

事件の陰に...あり・スキーマという呪縛② ~ 立春の頃'20


 人間にはスキーマという認知機能上の枠組み、つまりものごとの見方や考え方、行動振る舞いの出発点、原則のような準拠枠がそなわっている、という話題を前回のブログでしました。スキーマは養育環境、教育やしつけ、人生のさまざまな出来事の経験や学習、社会文化環境を通じて獲得され、以降の私たちの思考、判断、行動などに深い影響を及ぼす、事前に組み込まれた情報に基づく心理的構え、あるいは思い込みのようなものです。

 

 ただ、思い込みというとなんだかネガティブな響きに感じられますが、スキーマは私たち人間にとって大切な能力です。私たちはスキーマを発動させることによって、身のまわりで起こっているさまざまな事態や対処すべき状況、人間関係といった周囲の情報や要求に対し、短時間のうちに推論スキルを駆使しまた理性的な判断や決定を下し、実行に移すことが可能になるからです。スキーマは重要な物事をそれなりに達成するための「とっかかり」としてのいわばコストパフォーマンにすぐれた方略であって、これを用いることで、私たちの脳という情報処理能力に限りあるシステムは、日常取り込む膨大な情報を破綻することなく処理しているのです。 

 このスキーマは、人類の長い進化の過程において、ヒトという動物が生き残り、種を存続させるうえで価値あるものとして獲得、継承されてきた知的能力のひとつであるとも考えられています。私たちは日常自分たちがそうしたスキーマを発動させ暮らしているなどとは意識しておらず、自分の持つスキーマに疑問をさしはさむようなこともまためったにありません。



 「人は見かけによらない」「人を見た目で判断してはいけない」こうした人生の助言は、私たちが少なくともなじみのない人や出来事について、まずもって見かけで判断し「がち」である事を意味しています。けれどもこれはスキーマという視点から見れば、まずもって見た目(外観や外形など)の情報あれこれを注視することは、対象や状況についての素早い判断が必要な場合にはとても安全かつ効率的な方法でもあるのです。自分の生命身体を守るうえにおいては、ときにうまくいかないこともあったにせよ、まずまずうまくいく方法なのだということを、人が経験上学んできたからにほかなりません。つまりは見た目にだってそれなりに一理はあるのだ、というわけです。 

 人は自分の身の回りをとりあえず「わかっている」状態におき安全を確保したい、自分の判断や考えが間違っていないと確認したい生き物ですが、残念ながら私たちの脳の処理能力には限界があります。すべての対象について都度詳細に検討・理解し、慎重かつ丁寧にかかわるほど私たちは万能ではないため、その能力をできるだけ節約しながら真に必要なものだけに振り向けるために私たちがスキーマを利用することはある意味とても適応的なスキルなのです。



 スキーマはこのようにすぐれたツールであるのですが、残念なことに大きな欠点もあります。柔軟性に欠けるのです。

 スキーマという機能とその発動は、もともと人類が厳しい環境を生き残り子孫繁栄を継続させるために進化の過程で受け継がれてきた、めったなことでは揺るがない強固な能力です。ですからこの長い年月をかけて組み込まれてきたスキーマについて、私たちが見直しや修正、変更を加えたりすることは実はストレスフルな体験であって、きわめて強い抵抗感を生んでしまいます。本能無意識的に現状維持を意図して抑制的になりがちで、新しい考えや秩序、多様な価値観を受け入れることがとても苦手なのです。

 ときにスキーマと合致しない情報や意見は無視され忘れられ、あるいはスキーマに適合するよう不適切に歪められ、情報の発信元(人)に不快感や敵意すら抱き排除しようとしてしまうこともあるのです。

 長大な進化の歴史スパンに比べれば極めて短い期間に劇的に変化し、すべてにおいて複雑多様化する社会環境に身を置く私たちにとって、かつて価値ある能力として重宝された強固なスキーマはときとしてかなり厄介な問題をかかえてしまうことになります。

 ほんの少し前まで有効に機能していたスキーマがすぐに役立たなくなり、今日の常識が明日には非常識になり得る状況や環境に適応することを絶えず求められる、とてもストレスフルな現状を今の社会は抱えてしまっています。

 現代の社会はなにかにつけスキーマのぶつかり合いの場のようなものです。さまざまな課題について既存のスキーマでは対処しきれず、社会の中に不安や緊張、軋轢、や対立を生み出していきます。まさに「事件の陰に女あり」ならぬ「事件の陰にスキーマあり」なのです。



 ただ、従来のスキーマあるいはそれを抱える人をただ単純に古く時代遅れのスキーマ、人間だとして断罪するだけでは、今社会が抱える問題は解決しないかもしれません。繰り返しになりますが、スキーマという機能とその発動は人にとってなくてはならないものであり、それは安定して強固である必要があります。そうした能力(他の知性も含め)を鍛え上げ洗練されたものにし、図抜けて進化繁栄してきたのがヒトという生き物なのです。

 けれども環境や時代が変わればそれは見直され新しいものが生まれる、そのスパンがどんどん短くなりつつあるということに私たちは注意しなければなりません。たとえ法律や制度上の規則やルールなどは時代に合わせて変わっていくとしても、わたしたちの意識の奥底にひそむスキーマはそう容易には変わらないのです。

 真に必要なスキーマの構築やスムーズなスキーマ間の移行が行われるためには、緊張状態にある相互のスキーマの意味理解の共有と友好的な歩み寄りが必要になってきます。過去を非難するでも美化するでもなく、理解し教訓を得ることが大切です。私たちは人間である以上、ヒューマン・エラーから逃れることはできません。けれども同時に自己訂正を行うことを受け入れ、既存の信念に基づく古いバイアスを新たに理解しなおすことは可能だし、またそうあるべきです。強固なスキーマを堅持するのではなく、より柔軟なスキーマの発動と運用を学ばなければならない難しい時代を私たちは生きているのです。





 今まで見てきたスキーマは、歴史的あるいは社会文化的背景に基づく集団思考的に共有しがちなスキーマといえるのに対し、私のようなカウンセラーが日々扱うのは、相談にみえる方々が抱える悩みや問題の根底にひそむ、むしろよりパーソナルでオリジナルな個人的なスキーマであるといえます。次回はそのことについて触れます。





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by yellow-red-blue | 2020-02-04 12:16 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、仕事について、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。記事のどこかに、読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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