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「わたし」であるとは?① ~ 立夏の頃’20

 

 五月晴れ、とスッキリいかない空模様が連休明け以降の東京でも続いています。やや肌寒いどんよりとした日があるかと思えば、モヤッ(靄)とした真夏日の陽気が続いたりします。季節外れの散発的な雷雨に濡れる朝のアスファルトから立ちのぼる、自然と人工物が混ざったような何ともいえない匂いは、青々とした木々や色とりどりの初夏の花々のやさしい香りが大気中を伝染するようあたりにそこはかとなく漂う、まさしく「風薫る五月」の薫(かお)りとはだいぶかけ離れたものに感じられます。

 そんな中でも、今頃はほぼ早朝あたりに限られますが、朝日に照らし出される富士山のくっきり鮮やかな姿は格別で、いつもの五月を感じるようでホッとします。ただ例年ならそろそろ8合目あたりでも山肌がちらほら見えだすくらい少し透けたような白さなのに、今年はやはり気象が例年と違うのか、今(連休直後)でも7合目あたりまでマシュマロのように分厚い純白の雪化粧に覆われた山頂を望むことができ、周囲の初夏の青い山々に囲まれかえって例年以上にその美しさが際立ちます。


 

 かつて東京を含め関東や中部地域の各所では、今よりずっと簡単に富士山を眺められていたようです。「冨士見町」や「冨士見坂」「冨士見通り」といった、各地に残る冨士の名を冠した地名や場所はその名残りで、今でも都内にいくつも存在します。実際私が小さなころ暮らした界隈にも、富士山が見える場所がいくつかあったのを覚えていますが、今ではもはやそうした場所から拝むことはまずできなくなっているそうです。

 都心ながら富士の姿を楽しめるレアなスポットを近所にたまたま知っていて、ひそかな優越感を覚えていた私でしたが、先日知人から「私なんか毎日見てますよ。」と言われ、ありゃ、と思ってしまったのでした。

  よく考えてみれば、昨今増殖の一途をたどる高層のマンションやオフィスビルからは、場所によってはそれこそいつでも富士の姿を心行くまで眺めることができるわけですから、日常的に富士山観賞を楽しんでいる人の数は逆に増えているのかもしれません。浅はかな優越感に水を差され少々がっかりしながらも、いつの時代も富士山は、日本人にとって心の原風景であり続けているという意味で、まさしく「霊峰」に違いないのだと胸休まる思いもするのでした。


 

 まだ幼稚園児だったころの私にとって、「いったい富士山という山はいくつあるのだろうか?」は大きな疑問でした。

 素朴で幼稚な知性しか持ち合わせない幼年期にはありがちな、なんともほほえましいエピソードに過ぎないのですが、当時の私にとってみればまさしく大問題。なにせ子どもながらの言い分ならたっぷりとあったのですから。

 小学校の裏山のてっぺんからいつも見える富士山でしょ、この夏休みに乗った新幹線の中から見えたあの大きな富士山でしょ、去年訪問した田舎の親戚の家の近くの河川敷の土手からはるかに望む富士山などなど、「あそこにも富士山がある」し「今度も富士山をみつけた!」という確かなる実体験であり実感なのです。しかも、複数の「同じもの」なんて身のまわりのそこら中にあふれているではないか!幼稚園でみんなが座る椅子はみな同じ、おやつに出るクッキーやビスケットだって同じものがたくさんあるし、お出かけするときに乗る電車なんて何両もの同じ車両がいつも行ったり来たりしている、というわけです。親からあれこれ説明され、富士山は作り物ではないのだと言われ了解しつつも、どこかなかなか納得できずにいたものでした。

 同じように、「地球はいったいいくつあるのか?」もしばらく考えこんでいました。未熟で中途半端に聞きかじった海外や地球の知識と理解しか持たない私は、「確かに日本は地球だ(!?)で、そうすると、アメリカとか他の国は同じように『ほかの』地球にあるはずだ。そうすると、いったいどうやって他の国へ行くのだろう?あの暗い宇宙をロケットかなにかで飛んでいかなくてはならないのだろうが、これは随分と大変だなぁ」云々。

 これには小学校へ進級するときに買ってもらった地球儀を見て一応の解決をみたものの、大人から与えられた正解なり本当は...なのだ、に対してどこか納得しがたい微妙な感覚と湧き上がるさらなる疑問の数々は、富士山の数問題と同じようにかなり長い間私の頭を巡ることとなりました。

 こうしたつたない学習経験から想像交じりに導かれた問題への関心と現実の正解とのギャップに感じる違和感なり葛藤は、成長途上で誰もが経験する自分を取り巻く世界への知的関心の萌芽なのでしょう。


 

 この話にはさらに続きがあって、そしてここからが本題なのですが、幼い私の疑問は、そうした身のまわりについてのいわば世界観の話から、こんどは「自分」にまつわる疑問へも及んでいきました。

 幼少の個人的エピソードが続いて恐縮ですが、ある時テレビの子供向けアニメだかアクション娯楽番組で、主人公が自分のニセモノと対決するという場面を見ているときに、私はあれ、とまたも首をひねってしまったのでした。

 ここまでを読見知っているたいがいの人なら、おそらく今度も「ひょっとして、どこかにもうひとりの自分がいるのではないか」などと考えたのだろう、と思うかもしれません。ところが、当時私の抱いた疑問はもっとへんてこなもの、いわば全くの逆の考えでした。

 「どうして『僕はひとり』だと、僕は『知っている』のだろう?」

 自分は一人だということになぜ疑いを持たないのか、「僕はひとりだ」に疑問を感じずにいる「ぼく」とはいったいどういうことなのか、考え込んでしまったのです。

 それだけではない、「ぼく」だけではなく、なんと家族や友達、幼稚園の先生はみんなひとりだと、なぜか僕は「知っている」ではないか!しかしその「知っている」とはおかしくはないだろうか?このあいだのお休みの日に東京駅でばったり会った幼稚園の友達とお母さんはいつも幼稚園で会うあの友達や母親であって、富士山や地球のように「もうひとりの」友達だとは自分は決して思わなかった。でもその「確信」はなぜなのだろう?

 もちろん当時このように言葉でもって自分を整理できているわけではなかったのですが、私の中ではそんなモヤモヤが頭を占めていたのでした。

 バカバカしいようでもあり、禅問答のようでもあり、ひょっとすると哲学的と言えなくもないのかもしれません。けれども、唯一無二の個として「わたし」が存在していて、誰とも違うかけがえのない自分である「わたし」は、様々自由に考え、判断・選択し、決定を下し行動する存在。こうしたいわゆる自己感覚、あるいは自律性の感覚の原型のようなものは、想像以上に成長の早い段階で、いわばデフォルト的に私たち人間に備わってきたのかもしれません。

 私たちはその後成長する過程で、自己アイデンティティや自我、自己同一性や、自尊感情、自己肯定感といった様々な表現や言い回しによって「わたし」と向き合い「わたし」と葛藤することになります。そうしたことについては、さまざま研究が進み定義され知識として蓄積されてはいるものの、正直私にはどうもきちんと納得できていない、つまり理解していないのではとずっと感じてきましたし、今もってそれに変わりありません。

 日々のカウンセリングの対話の中でも、たびたびこの「わたし」「自分」にまつわる問題は世代を問わずテーマとして取り上げられます。たとえば、生い立ちやパーソナリティに端を発し、「健全なわたし」が十分育まれなかったり欠如したがために、精神的困難に陥ったり精神疾患を抱えながらその後の人生を生きなければならない人々がかなりの数いるとしても、そうした状態が意味するものについてやっぱり私には明確にできないのです。

 「自分は(自尊感情が低く)ネガティブ人間だ」「まわりのように自分にまったく自信が持てない」「自尊心ってなんですか?それって高められるのですかる?」「どうして私はこうなってしまったのか?」こうした切実な問いかけについて、当座の説明なり話し合いを通じ改善がそれなりに見られるにしても、本当のところそれでいいのだろうか、といつも葛藤を感じるのです。それらは実際にはどのような実態なり状態で、何がそうさせているのだろうか。あるいは逆に、健全(あるいは正常、普通と言われている)な人は、確かな「わたし」を実感しながら日々を過ごしているのだろうか?それについてちゃんと説明が可能で、またそれは誰にも必要で役立つものか?みなが同じく健全な「わたし」である必要があるのだろうか?


 *

 

 これらはとても難しい問題で結論などないのかもしれません。けれども私はこれから手探りでも、今ある知識や知見だけにとらわれずに、できるだけ自分の中も探りながら考えを深めていくことが大切だと最近考えるようになっています。「こころ」と「わたし」にまつわるさまざまな問いに対する答えというより、疑問を解くためのわかりやすいなにか「とっかかり」のようなものがないか、考えていきたいのです。

 次回は今回の続きの話を、幼稚園児の私ではなく、ごく最近の私の日常の体験からふと浮かんだ疑問から始めたいと考えています。



 ところで、お読みいただいている皆さんには小さいなころ、どんな素朴な疑問を抱いていましたでしょうか?それについてどう考えていましたか?それは今何か意味しているでしょうか?

少し思い出しながら考えてみませんか。




最後までお読みいただいてありがとうございます。

メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂

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# by yellow-red-blue | 2020-05-10 08:47 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、仕事について、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。記事のどこかに、読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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