秋も終盤を迎え、冬の到来を告げる木枯らし一号の報せを待つばかりの東京の紅葉は今が真っ盛りです。この季節に外出して日々色彩豊かに変化を遂げるイチョウやケヤキ、桜といった美しい並木のある通りに出くわすと、いっとき行先や外出目的を忘れてつい通りに沿ってそのまましばらくプラプラと歩きがちです。
ただ、今年の晩秋の景色を眺めていると、私には昨年までとはどことなく違って見えます。今までのこの季節は、美しい紅葉を愛でつつも冬を間近に控え落ちゆく枯葉や次第に辺りに漂い始める冷え冷えとした空気ゆえか、どことなく哀愁を帯びた寂しげな感覚が自分の心の基調に流れる思いがしてきました。ポール・ヴェルレーヌのかの有名な『秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し』まさしくそのものという感じで、それがかえってまた季節により深く感じ入る感性を刺激する喜びともなっていたものでした。
けれども今年に限っては、低く角度のついた晩秋の陽の光の反射が多彩に演出する木々の葉や秋の空にむしろ躍動感や自然の力強さのようなものを、陰よりも陽の気配をより鮮明に感じます。
それは多分、さまざまな不安要素をいまだ完全には払拭できないにせよ、コロナ禍下の一時の閉塞状況から立ち直り、日常が回り始めた東京の街と人から徐々に発せられる前向きの活気やエネルギーと無縁ではないのでしょう。
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これまでのコロナ禍の日々を個人的意見として総括するならば、それは私たち人間が、非日常的な不安や恐怖に晒され将来不確かな状況に陥った場合には、事実や客観性に基づく根拠を明確にし、問題解決のための合理的で現実的な選択肢についての議論を冷静に進め、それを説得力あるメッセージとして都度広く一般に共有することがいかに不得手な動物であるかが、世界中のいたるところで可視化された2年間だった、ということだと考えています。
人間は未知の出来事に冷静に対処すること、つまり正しく恐れることができずに不安や恐怖を現実とは不釣り合いなほど過大に見積もる傾向がしばしばあるということ、不確かな情報を切り分け事実に基づき現実的な全体像を知ろうとするよりもむしろ自分が見たいものを見、信じたいものを信じ、自らの願望に沿った切り口で現象を捉えることに執着すること、さらには自分の見解と矛盾する物事や他者に対しては考えなしに簡単に不実不正のレッテルを貼り陰に陽に拒絶、敵視することに疑問を感じないという誤りを犯しがちであること、などが明らかになったように見えます。
人間は共存と対話を望みながら一方で分断を自ら促進していることに気付けないかなり不自由な生き物としての側面を持っており、それはひょっとすると高度な進化を遂げたとされるヒトの脳が未だ共通して抱える弱点、あるいは欠陥と表現できるかもしれません。
ヒトもまた他の動物同様にいまだ進化途上、いや永遠に進化途上の生き物なのであり、私たちはその気の遠くなるような果てしない進化の時空のあるほんの瞬間に存在している個体にすぎない、とつくづく思い知らされます。
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今回の世界的パンデミックやかつての東日本大震災といった、過去に前例のないほどの異常な事態を経験することは、生存本能としての安心と安全が脅威にさらされることを意味し、その心理的恐怖ゆえに人の心はさまざまな誤作動を起こしてしまうのですが、このことについては精神医療の臨床現場をはじめ広く心理的援助に携わる人間にとってはそれほど珍しい現象ではないといえるかもしれません。
さまざまな精神障害に苦しんだり、精神的ストレスから日常社会生活に困難をきたす状況にある方々にしばしば共通するのは、突き詰めれば「安心と安全」という人が生きるに根幹ともいえる無意識下の精神基盤が崩されるほどの過酷な体験をしたり、あるいはとりわけ乳幼児期から思春期頃の発達の過程において、不適切な養育や教育、しつけといった逆境的環境下に日常継続的に置かれたことによって、過度の見捨てられ恐怖や罪悪感、恥の感情が心深くに植えつけられ、本来健全に育まれるべき安心安全の基本感情が決定的に不足していることに気づかずに成長せざるを得なかった、といった複雑な事情が見えてきます。
滅多なことでは揺るがない安心安全の精神発達基盤があってはじめて健全な自我意識や自尊心は育まれていきます。それが十全に発達することなくあるいは大きく損なわれたまま成長し人生を送ることは、たとえて言えば海図や羅針盤の見方も使い方も十分に知らないまま未知の大海原の航海へとひとり投げ込まれるようなものであり、命綱や安全ネットなしに綱渡りや空中ブランコのような曲芸をいきなり強いられるようなものです。
不十分な基礎土台しかない土地の上に安全で快適な住宅を建てることが困難であるように、そうした人々は、かけがえのない人生という家を建てようと努力してもそのたびに想像を超える困難に直面したり、さもなくば脆弱な住み家しか建てることがかなわず、不安と緊張、警戒心を常に抱え周囲や社会との軋轢を埋められないままの人生に耐えなければなりません。そうした苦しみの正体や原因について知ることは周囲はおろか本人にとってもきわめて困難であって、目に見える病状や苦痛、明らかに有害な結果しかもたらさないようなふるまいや行動はいってみれば病状という表層に過ぎず問題の本質は常に水面下深くに隠されたまま、ということも珍しくありません。
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新型コロナのような集団として共有され社会化された心理ストレスにせよ、個人の人生で起きる精神的困難にせよ、そうした問題の解決にあたって私たちが理解しなければならないことは、人間にとって、合理的理性的な思考が功を奏し、客観的根拠に基づいた方策が常に正しい回答であるとは限らないということ、私たちは社会文化的背景や生活環境、人間関係をはじめさまざまな要因に影響を受けながらこれまでを生き、そして今を生きる一人ひとりなのであって、正誤・善悪や正常・異常、因果や平均・線形性といった単純な二者択一的アルゴリズム的認識の世界から容易に逸脱し得る複雑で説明困難な存在でもあるのだということを心から認めなければならない、ということです。
そうした人間の本質としての複雑さを背景として、相手の安心と安全の喪失の事情や気持ちに真剣に耳を傾け、たんに状況を理屈として理解するのでなく、苦しさつらさという現実に心から共感し対話の努力を根気よく続ける先に、ようやく真の相互理解が見えてくると考えます。
相手の言動に対してただ感情的で身勝手だ、つらいのはあなただけではない、あるいは現実や客観的事実を無視している、などと正義正論を振りかざすことに終始するのでは結局何の問題解決にもなりません。なぜならば私たち一人ひとりがそれぞれに事情を抱えて生きる人なのですから。正論や正義とは、自分の正しさを証明するためでも相手をやり込めるためにあるのでもなく、相手を助けたいという心からの素直な動機に基づいて行使されてこそ有益であると信じています。
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少し深刻で難しい話になってしまいましたが、安心、安全という感情は一見すると分かりやすそうに思えますが、その正体はつかみどころのないいまだ謎の多いこころの働きといえます。けれども繰り返しになりますが、それが私たち人間の成長発達から性格や思考判断、行動を始め人の営みすべての出発点といってさしつかえないほど重要なものだということです。いずれまた回を改めて触れたいと考えています。
“厳格な躾(しつけ)は、ほったらかしにされるのと同じくらい子供を追い詰める”(ジョージ・ペレケーノス『夜は終わらない』横山啓明訳 早川書房)
“自然は完全なものだが、人間は決して完全ではない。完全なアリ、完全なハチは存在するが、人間は永遠に未完のままである。人間は未完の動物であるのみならず、未完の人間でもある。他の生き物と人間を分かつもの、それはこの救いがたい不完全さに他ならない。人間は自らを完全さへと高めようとして、創造者となる。この救いがたい不完全さゆえに、永遠に未完の存在として、学び続け成長していくことができる。”
(エリック・ホッファー『魂の錬金術』中本義彦訳 作品社)
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