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 紅葉の美しさは、木々の葉すべてがほぼ同時期に同じように色づくからではなく、木の種類や置かれた環境や場所によって、それぞれがそれぞれの個性とタイミングでバラバラに色づき、そのバラバラゆえに無限の色彩の連続体が生まれ、全体としての調和と美しさをかもし出しているからだと気づかされます。


 私たち人の社会も本来そうなのでしょう。同じ親から生まれたり、あるいは同じような生育環境で育ったとしても、一人ひとりの体験は固有であり全く同じ人間はいません。性格や気性、体力や体質、思考力や想像力、適応能力や感受性など、ありとあらゆることに差や違いがあるのが私たち人間です。それがゆえにかえって私たちの社会はうまく回っている(はず)のです。


 ところでいま「社会」と書きましたが、社会という言葉の持つニュアンスや連想されることについては日本と欧米では少し異なります。日本における社会とは、国の体制や在り方、法制度基盤や、企業や役所などさまざまな機関組織を意味し、さらにはより抽象的な暮らし向きや世相、社会経済状況などを意味するところが多く、どちらかといえば、自分を取り巻く漠然とした周囲というニュアンスが強く、どうかすると生きる当事者としての「私」や「人」の所在をあいまいに使われることが多いような気がします。

 いっぽうとくに欧米における社会とは、最近よく使われるいわゆるソーシャルという言葉に含まれる関係性としての意味合いを持ちます。つまりは社会とは人の「関係」そのものであって、親子や夫婦、友人や会社や地域の対人関係、ビジネスなどすべてが「社会」であると言えるでしょう。ソーシャルは社交的とも訳されますが、社交的であることが望ましい人間像とするのもまた欧米の価値基準といえます。ですから「社会不安」や「社会問題」、あるいは「いまの社会は~」「~な社会になりつつある」などと表現される場合、本来それは人の間の関係になんらかの問題があるという意味だと考えてもいいかもしれません。日本語でも「人のあいだ」と書いて「人間」であることを考えると納得できます。社会とは、複数(かなりの多数)であることを特徴に持つ人間たちそのもでもあるのです。


 社会がソーシャル(関係)である以上、私たち人はひとりよがりで自分勝手に生きることはあまり許されないことになります。しかしまた同時に、私たちはやっぱりそれぞれに個別性や独立性を持つ固有の生き物です。ですから人のあいだでバランスをとる、ずっとシンプルに言えば、半分は相手に譲らなければ成立しないのが社会、自分の意見や願望はせいぜい通って半分くらいが正常な社会であり人間関係であるともいえます。社会的場面においては、他者と競合的なこともあれば協力的な場合もあるでしょうし、自由や競争も時に必要です。しかし、あくまで腹八分目ならぬ腹五~六分目程度でまずもって良しとする、それを他者も自分も受け入れ相互に理解し思いやること、それををもって人間社会の本懐とすべし、というのが「社会の本当のところ」なのでしょう。


 ところがややもすると私たちは、何かと自己に都合のいいよう有利になるようにと考え意見を押し付けてしまう、自分をあれこれと正当化し、ときに相手に対し過度にさまざま求めてしまう、つまり説得と主張に偏った関係構築態度こそが対人関係であるような生き方をしてしまいがちです。いま世界が抱える問題の多くの根底に、自己に都合のいい関係を諦めきれない人の欲があるようにも思えてきます。関係とはその解釈や中身、それぞれの受け止め方によって時々刻々いかようにも変わるものです。決して安易に結論づけられるものではなく、関係を持つ相手を理解することにおいて、努力と時間を費やさなければ気づかないことだってたくさんあります。それは家族、夫婦、友人、職場の人間関係、ビジネスなどすべてにおいて言えることでしょう。

 「ひとのあいだ」と書いて人間、人の関係が社会であるという意味とともに、人と人とに「間をとること」もまた私たちに必要です。一歩引いて相手をわかろうとすること、相手にもまた「間」があり固有の体験があることに想像力を働かせ、さまざま思い描くこと。そしてなによりも間を詰めることを求められるあまり、自分を過度に追い詰めてしまわないこと、そうしたこともまた私たちの社会においてとても大切なことだと感じます



 寒さが本格化する今の時期、外へ出かけた折に何かと途中でお茶を飲んで温まりたくなってしまいます。冬へと変わりゆくあたりの様子を眺めながらのあたたかな飲み物や店内に穏やかに流れる心地よいBGMのサウンドは、仕事や日常で疲れた心身を温かく包み込んでくれます。

 そうしたBGMに時に真剣に耳を傾けていると、クラッシック音楽をジャズやロック、ポップス、ボサノヴァやハワイアン、ラップに至るまでさまざまにカバー、アレンジした曲が多いことに気づかされます。ちょっと聴くとどこかで聞いたような気もするけどあれなんだったっけ、などと記憶の中をあれこれ探りながら耳を傾けることもしばしばです。

 「あ、これカノンか。」

 こんなアレンジもあるのかと驚いたのがつい先日のことでした。カフェで流されていた曲目は、パッヘルベルのカノンとして広く親しまれている17世紀末に作曲されたバロック音楽。「パッヘルベルのカノン」と言われてもピンとこない方も多いと思いますが、クラシック音楽好きや楽器を習ったことのある人はもちろん、誰でもきっと一度は聞いたことのあるクラシックの名曲です。あ~これね、聞いたことある、の典型です。この曲を晩秋のこの季節に聴くと、私はある映画のことを思い出します。実は、この曲が一般の人の間でもつとに広く知られるようになり、さかんに他のジャンルでカバーアレンジされるようになったのは、ある映画の主題音楽として使われたことがきっかけでした。

 それが、ロバート・レッドフォード監督「普通の人々」(1980)です。当時俳優としての絶頂期だった彼が初めてメガホンを取って製作したこの映画は、数々のアカデミー賞を受賞し、ハリウッド映画の名作として映画史に今もその名を刻んでいます。

 少し古い映画なので、まだご覧になっていない方がもしいらっしゃったら、是非一度ご覧になって次回のブログを読んでいただければと思います。


 真にすぐれた芸術とは、私たちにその作品への積極的な参加と関与を求めてくるものです。ただ五感で受身的に観て感じるだけでは多くの秀作が持つ真の力に気付くことはできないかもしれません。映画も同じです。映画製作者たちは、表面上のストーリーや映像、俳優たちの発するセリフを超え、作品中のそこかしこにより深い意図やメッセージを織り込み、密かに観る私たちの心にさまざま訴えかけます。そしてまた私たちがそれらを求め、感じようとすればするだけ雄弁に、そして豊かにそれに応じてくれる。そこに芸術の真の意味があります。人生を生きるとは、関係としての人とは何かについて深く考えさせ、私たちの心を豊かにし、生きる勇気と素晴らしさを教えてくれるのがいい映画です。そしてレッドフォードの『普通の人々』は間違いなく「いい映画」です。



最後までお読みいただいてありがとうございます。

C2-Wave六本木けやき坂

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普通の人々 ① ~ 小雪の頃’17_d0337299_10442822.jpg





# by yellow-red-blue | 2017-11-22 11:35 | Trackback | Comments(0)

メンタルケアと心の相談室 C²-Waveのオフィシャルブログです。「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、思いつくまま綴っています。記事のどこかに読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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