お寺の標語(Ⅰ)~ 処暑の頃'15

 
 散歩というか、歩くのが趣味なんです。
 晴れの日だろうが雨の日だろうが、ウロウロと外を歩きたくなる習性が昔からあります。他人から見るとこの距離ふつう歩く!?
と言う距離もへっちゃらで歩いてしまいます。仕事や用事で交通機関を利用しなければならないぐらい離れた距離の場所まで行っても、帰りはスタスタと仕事場あるいは家まで戻るなんてことも日常茶飯事です。
 そこが今まで訪れたことのない場所だったりすると、このままただ帰るのは実にもったいない、と思ってしまう。この通りの先には何が待ち受けているのか知りたくてしょうがない、などというなんとも他人からみれば不可解な衝動を抑えるのが難しいのです。

 ましてや、休みの日に穏やかに晴れ渡る空を眺めようものなら、何か家にいることに罪悪感を覚えてしまうほど外の空気を求めがちです。気分が重苦しいときも晴れやかな時も、考え事をしたいときもと何かにつけては、散歩に出かけるのが昔からの習慣になっているみたいです。

 そういうわけですから、いくつかお気に入りのお散歩ルートがあるものの、前もってルートや行き場所も決めず、思いつくままの方向に出かけぶらぶらと時間を過ごすのもよくあります。で、そうやってうろついていると、わたしの住んでいる港区にはお寺さんがとても多いことに気づかされます。ランドマーク的な大きく立派なお寺もありますが、住宅地や高層ビル街、首都高速や大通りのうねりに隠れるようにひっそりたたずむお寺も本当に多いのです。

 そうしたお寺の入り口あたりには、たいてい掲示板のようなものが設けられており、お寺や地元周辺自治会の行事などのお知らせが貼られている一方で、「今日の一言」や「今月の一言」といった標語のような言葉を皆さんもよく目にするのではないでしょうか。お寺の住職さんが、日々思うこと、世相やわたしたちへの戒め、人生における救いや勇気づけの言葉をさまざま工夫し、書にしたためていらっしゃるのだと思います。
 ふと掲示板に目がいけば、「なるほどうまいこと言う」と時に感心しつつも、さらっと流してその後はすっかり忘れることが多い街角の一風景ですが、時に胸にぐさりと突き刺さりいつまでも心に引っ掛かるような言葉にも出会います。
 いつどこのお寺で見かけたかは定かではありませんが、こんな標語(正確ではないかもしれません)を見かけました。

      泣きたいときは思い切り泣きなさい。
      泣くことは終わりではない。
        泣くことは、新たな始まりの第一歩なのだから

 「男だったら泣くな」「みっともないから泣くな」「最後には泣きを見るぞ」「泣いたらあかん(なぜか関西弁ですが)」「ぐっと涙をこらえて」・・・こうした言葉はみなそうですが、つまりは、わたしたちは(特に男性でしょうか)「泣いたらおしまいだ」だと陰に陽に教えられ育ってきたのです。言ってみれば、自分の感情を表にさらけ出すようなことは容易にすべからず、恥はかくべからず、という日本的美学のひとつですが、あとから「泣くこと」のないようあれこれ懸命に努力しなさい、我慢なさいとずっと教わってきたのですね。
 
 しかしこの標語は、終わりとしての「泣く」があるのではなく、始まりとしての「泣く」があることを訴えています。泣くことへの躊躇と恐れに疑問を投げかけ、涙することを自分に許すことの大切さを素直に表現する言葉なのです。
 
 あ~カウンセラーとしてこういう含蓄ある言葉を出せないものか…心洗われる説得力ある言葉で、相談者の心に触れることはできないか、とつねづね四苦八苦するわたしにとっては、何とありがたくも自らの未熟さを痛感する言葉です。

 最近では、自分の感情をさらけ出し誰彼はばかることなくみんなで泣いて、癒しを得ようというセミナーや会合が人気と聞くと、それはそれでどうなんだろう?と疑問と違和感を禁じ得なくもありませんが、涙することの効用は確かに認められていいのではと思います。2015823日)

メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave麻布十番ウェブサイト

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# by yellow-red-blue | 2015-08-23 20:36 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、カウンセラーとして、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。ブログのどこかに、読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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